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HOMEコレクション&リサーチ中之島映像劇場アーカイブ第21回中之島映像劇場「美術館と映像—ビデオアートの上映・保存—」
島 敦彦
35年前、中村敬冶さん(1936-2005)は同志社大学の専任講師を辞して、国立国際美術館に移られた。ある年齢以上になって館長として迎えられる場合を除けば、長年勤務した大学から美術館の現場に飛び込む人は、実はほとんどいない。若いうちは美術館で研鑽を積み、ほどなくして大学で研究生活を送るというのが、学芸員のおきまりのコースだからだ。
近年は大学志向よりも美術館で仕事を全うする人が増えてきたように思われるが、いずれにせよ、1986年の春、月並みを嫌う中村さんらしい、50歳を目前にした転職だった。
初めて出勤した日、桜が咲いていて、そのむこうに国旗がはためいていた。[……]この旗の下にある限り、美術ごときについてではあれ、批評などというもの、あるいはその自由は、原理的に一定の制限を受けざるをえないのではないかと気づき、愕然とした。
(中村敬冶『現代美術/パラダイム・ロストⅡ』水声社、1997年、あとがき)
「案に違わずというべきか、不安が実ってというべきか、この仕事は九年しかもたなかった」と「あとがき」は続くのだが、その9年の最後の3年余りを私は中村さんとともに過ごした。そもそも「国立国際美術館に来ないか」と1990年頃に、富山県立近代美術館(現在の富山県美術館)の学芸員だった小子に声をかけて下さったのが、中村さんであった。
その理由の一つは、富山県立近代美術館時代に、ビデオアートにまつわる企画展を私が二度担当していたからであったらしい。1983年の「第2回現代芸術祭―芸術と工学」と1989年の「第4回現代芸術祭―映像の今日」だ。中村さんは、後者の企画展を見がてら私に会いに来館された。
展示は、日本のビデオアートやコンピュータ・グラフィックスの現状を俯瞰する内容で、テープ作品上映(出光真子、伊奈新祐、内山昭太郎、斎藤信、力武俊之輔&島野義孝、田旗浩一、寺井弘典、寺本誠、永田修)、インスタレーション(天利道子、岩井俊雄、串山久美子、小林はくどう、桜井宏哉、佐々木成明、竹内忍、山本圭吾、中井恒夫、中島興、松本俊夫、宮島達男、山口勝弘、吉原悠博)、特別常設展示(久保田成子)、さらにコンピュータ・グラフィックス(勝井三雄、河口洋一郎、木村卓、榊原幹典、土佐尚子、林弘幸、藤幡正樹)やゲーム映像などが展示・上映された。
富山の展示をご覧になった中村さんからは、カタログにもっとちゃんとしたテキストを書かないといけない、という苦言を頂戴した。確かにその通りではあったが、機材調達からカタログ編集、作家招聘の段取りのほとんどを一人で準備していた私には、その余裕が全くなかった。中村さんとしては、国立国際美術館において、将来ビデオアートやCGなど新しいメディアに関する企画展を計画しようという目論見があったようで、その担当者として私を想定していた、と別の人から聞いたことがある。
ところで、中村さんは、美術館に入る以前から、美術批評家として新聞・雑誌に寄稿し、関西の画廊で展覧会を企画するなど、大学での業務以外にも多彩な活躍をされていた。国立国際美術館でもその才能は如何なく発揮された。
美術館に入った1986年には、マルセル・デュシャンを含む所蔵品による常設展「美術の観念/観念の美術」を企画し、20世紀美術に誘う懇切丁寧な解説をチラシに寄せた。「芸術と日常 反芸術/汎芸術」(1991年)では、工藤哲巳や荒川修作ら読売アンデパンダン世代からナンセンスなハプニングで知られるグループ「ザ・プレイ」や90年代初頭の森村泰昌にいたるまでを幅広く紹介した。「彫刻の遠心力-この十年の展開」(1992年)は、私も半分お手伝いした特別展で、1980年代日本の現代彫刻を、石原友明、中原浩大、今村源、中ハシ克シゲら関西の気鋭と80年代後半から頭角を現した内藤礼や髙柳恵里、ロンドンの寺内曜子やニューヨークの久保田成子ら、新たな彫刻表現を拡張する仕事を展望した。
「ヨーゼフ・ボイスの世界」(1990年)や「パナマレンコ展」(1992年)、さらに「工藤哲巳回顧展-異議と創造」(1994年)はいずれも、かねてから中村さんが強い関心を寄せてきた特異な芸術家たちだけに思い入れが深かった。
こうした展覧会活動と並行して、中村さんがその草創期から注視してきたのが、実験映画やビデオアート(中村さんは「ヴィデオ」の表記を好んだが、ここでは一般的な表記「ビデオ」とする)だ。
たとえば1982年に京都の成安女子短期大学内のギャラリーで、木版画家の黒崎彰との共同企画としてビル・ヴィオラの新作《はつゆめ》(1981年)をいち早く上映し、自らレクチャーも行っている。
最初の著書『現代美術/パラダイム・ロスト』(書肆風の薔薇、1988年)を見ると、スタン・ブラッケージ、《アネミック・シネマ》、「日米ビデオ・アート展」、ビル・ヴィオラ、「ヴィデオ・スペース三〇〇展」、ジョナス・メカス、「ドイツ実験映画1980-84年」、パトリック・ボカノウスキー、「ふくい国際ビデオ‘85フェスティバル」など、実験映画やビデオアートに関する展覧会や上映会について数多くの批評を残している。
国立国際美術館においては、北ベトナム生まれの映画作家トリン・T・ミンハの異色のドキュメンタリー《ル・アッサンブラージュ》(1982年)やジョナス・メカスの日記映画《リトアニアへの旅の追憶》(1972年)を上映したほか、国内外のビデオアートを上映権付資料として購入し、常設展の一角や講堂で恒常的に紹介した。当時は、3/4テープにダビング(私自身、ダビング作業を四苦八苦しながら行ったが、なかなか難しい業務のため、途中から専門業者に委託)した上映用のテープを準備し、観客の申し出に応じて、看視員がその都度ビデオ再生機に挿入して見せる方式を採用した。申し出方式にしたのは、テープの消耗を懸念したせいでもあるが、そもそも来館者が少なかったからだ。
今回、田中晋平客員研究員の企画による「美術館と映像-ビデオアートの上映・保存-」は、国立国際美術館が万博記念公園にあった1989年頃から、中村さんが映像資料として毎年少しずつ購入し、私が引き継いで1995年以降2002年頃まで紹介してきたビデオアートの一部をあらためてご覧いただくものである。 今回ご紹介する二つのプログラムは、ブラウン管時代のテレビモニターに映されることを想定した作品群で、1980年代から90年代にかけてのビデオアートの状況と雰囲気をよく伝えるものである。1980年代以降、全国各地に設立された公立美術館が、積極的に映像作品の上映や収集に乗り出していた時期とも重なる。また中谷芙二子が主宰するビデオギャラリーSCANの活動も活発であったし、東京はいうまでもなく、北海道、横浜、富山、福井、名古屋、福岡などさまざまな場所で、ビデオアート関連の展覧会が継続的に開催された。ソニーやビクターなど映像機器の企業側もその普及に利用できると判断した場合は、諸機材の無償提供を惜しまなかった。しかし、メディアの進展とともに、液晶などのフラット・ディスプレイや高性能のプロジェクターが普及していくにしたがって、新たな映像作家たちが登場し、隆盛を極めた従来のビデオアートは下火になっていった。機材や設備の更新が予算的にできなくなっていった美術館の事情も背景にはあったように思われる。
中村さんはその後どうしたのかというと、1995年の3月に国立国際美術館を退職し、4月からは新設準備段階にあったNTTインターコミュニケーション・センター(ICC)に転出、1997年4月に開館後は、同センター副館長・学芸部長として、「ビル・ヴィオラ ヴィデオ・ワークス展」、「荒川修作/マドリン・ギンズ展」、「『針の女』-キム・スージャのヴィデオ・インスタレーション」などを企画した。
2001年3月に同センターを退職直後に、中村さんは、「メディア・アートの危うさ」(『読売新聞』2001年4月11日夕刊)と題して、「芸術の方が技術に盲従している場合がやたら多い」と厳しく指摘した。晩年は、特定の組織に属さず、より自由な立場で批評活動を続け、2005年3月24日に死去した。
(しま あつひこ/国立国際美術館館長)
永田 修
この作品を撮影した道は、自宅のすぐ側を走る300m ほどの直線路で、向こうは河川堤防に上るゆるやかな坂道となっていて見通しがいい。カメラを十字路の手前に据えた。
1984 年8 月中旬のお盆、台風並の低気圧からの南風が道路上に雲を走らせているのを見た。
数本のバッテリーを自宅で交互に充電しながら、朝の9 時から午後3 時頃までほぼノーカットで撮影を続けた。事前に明確な撮影設計や編集方針があったわけではない。定点撮影に決めていたから露出を調整する位で何もしなかった。各シーンはほぼ順つなぎで、クルマが横切る部分での転換は即興のアイデアだ。自転車で(前方に見えるカメラの転倒を恐れつつ)雲を追いかけて来るのは私自身だ。
撮影現場での工夫は、ブラウン管の小型モニターを見ながら、当時の民生用ビデオカメラとしては露出をギリギリまで切り詰め、光と影のコントラストを強調しようと苦労したことを憶えている。
編集時に手を入れたのは、モニターの再撮影と、日光のフラッシュインサート。終盤をモノクロにして「影の部分」と女子学生の制服の白い袖を際立たせたことくらいか。編集もアドリブだった。
私はクルマの免許を持っていないので作品のほとんどを近所で撮影している。VHS とはいっても撮影機材一式を担いでの機動力は自ずと限界がある。近場と割り切ってしまえば、ローコストで作品制作ができた。(費用は私のようなホームビデオ作家として、とても大事なことだった)…. 「撮影したテープは常に再利用した」のでオリジナルは残っていない。
カット編集を試みてはみたけれど、私の機材では緻密な繋ぎができなかった。撮影後、作り手の脳内スクリーンに投影されたイメージに、仕上がりを近づけるには介在する機材性能の限界を感じていた。「ちょっと違うよね」というギャップが常にありながら、明らかに悪戦苦闘を楽しんでもいた。
しかし、近場でじっくりと対象と向き合って撮影するということから学んだことがある。
つぶさに見つめること。耳を澄ますこと ….ありふれた風景でもよく観察することの大切さだった。
このことは、後々の作品の基本になっている。自分が見たい「風景と時間」を数分間に凝縮することにこだわった。あくまでアナログ感触に頼る作り方だったので、ぐるぐる回るのが直に見えるビデオテープを電気的物理的、また手指で直接コントロールする楽しみは、デジタルとは相容れないものだった。
当時の私は映像の職人になりたかったのだろう、と思う。
2022年6月追記:
その後、加齢黄斑変性という眼病にかかってしまいました。DTPデザイナーとして、ビデオアーティストとして、これは職業病でもありますが、日々視野が、歪み、フェードアウトしていく様はまさに、ビデオ的でもあります。これをリアルタイムに中継するのも一興かと思いますが、現在は作業的に辛いです。
(ながた おさむ/書籍編集デザイナー)
稲垣 貴士
今日、デジタル技術の発達によりVFX(視覚効果)、3DCGなど、さまざまな高度なデジタル画像処理技術が当たり前のように映画やテレビドラマ等に使われている。しかもFull-HD(1920×1080)を超える超高精細映像の4K(3840×2160)、更には8K(7680×4320)が普及しつつある[1]。しかし、1970年代〜1980年代といえば、まだアナログ全盛期であり[2]、携帯電話[3]もインターネットもなかった時代である。コンピュータの性能は今とは比較にならない程低く、コンピュータで動画を扱うことはまず考えられなかった。《2001年宇宙の旅》(1968年)、《スター・ウォーズ》(1977年)、《ブレードランナー》(1982年)などの特殊効果は、CGではなくミニチュアを使った光学的合成である。1970年代〜1980年代は、デジタル技術がまだ発達して無かった時代であるということにまず触れておきたい。
私が九州芸術工科大学(現在は九州大学芸術工学部)に入学した1976年当時、世の中にはまだ「パソコン」という言葉もなく、コンピュータといえばワンフロアを占める大型コンピュータであった。それは発熱対策のために1年中肌寒いくらいの冷房のきいたクリーンなフロアに設置されていた。その一方で、マイコン(マイクロコンピュータ)と呼ばれた8ビットのプロセッサーが搭載された電子基板が発売されていたが、メモリー(RAM)はわずか512バイト[4]しかなく、ディスプレイといっても電卓のように8桁のLEDに16進の数字が表示されるだけであった。当時大学では、学内の大型コンピュータを「電算機」、その設置されていた部屋を「電算機室」と呼んでいたが、コンピュータとは文字通り計算する機械であったのだ。今ではノートパソコンの画面に日本語が表示されるのは当たり前だが、当時は大型コンピュータの画面でさえ数字と記号、アルファベットが表示されるのみで、画像はおろか日本語の表示すら出来なかったのである[5]。
1970年代にはカラーテレビが普及していたが[6]、家庭用VTRが世に出始めたのは70年代後半である[7]。それはテレビ番組の録画装置であり、映像編集ができるようなものではなかった。ナムジュン・パイクの《Global Groove》(1973年)やピーター・キャンパスの《Three Transitions》(1973年)など、初期のビデオアートは大学で見ていたが、当時、ビデオ機材は大変高価でビデオの映像編集は技術的にも非常にハードルが高かったのである。今はパソコンで簡単に映像編集ができるので想像することが難しいかもしれないが、VTRは回転ヘッドを使って磁気テープにビデオ信号をヘリカル記録(斜め記録)する方式であることから、原理的に磁気テープの切り貼りによる映像編集はできず、プレーヤーとレコーダーのテープ走行と回転ヘッドの回転を同期させてダビングするという電子編集をしていたのである。テープ走行と回転ヘッドの回転が停止した状態から定速になるまでには時間がかかるため、編集ポイントの数秒前に巻き戻し[8]、そこからスタートさせて目的のポイントで映像をつないでいた。編集を終えた後、途中の映像を削除したいと思っても、フィルムのように切って抜き取るとこは出来ず、どうしても修正したいという場合は、その部分から編集をし直さなければならない。フィルムの場合、1コマ単位でこだわって編集できるが、ビデオではそれがままならない。一方、ビデオは撮影後、すぐに再生して映像を見ることができるが、フィルムは撮影した後、現像しなければ映像を見ることができない。また、ビデオは、電子ビームをコントロールして蛍光材を発光させるブラウン管に映像を映すため意図的にサイケデリックともいえる派手な色彩を出すことができる。さらに2つの画面をオーバーラップさせたり、ルミナンス・キーやクロマ・キーでライヴ合成したりすることも可能である。このビデオとフィルムの特性の違いは、はっきり意識されていた。先述した1970年代のパイクやピーター・キャンパスの作品が、即興的、パフォーマンス的表現であるのは、そういったビデオというメディアの特性からきている。また、当時のビデオモニターはブラウン管方式の制約から最大サイズが27インチほど[9]、ビデオプロジェクターは画質が悪く画面も暗かった。そのため個人が上映を前提とした映像作品を制作する場合、メディアとしては8mmフィルムや16mmフィルムが適していた。
大学院在学中(1981年)、ビル・ヴィオラの特別講義が開催された。来日してソニーのスタジオで作品を制作していた時期である。その特別講義でビルは「なぜフィルムでなくビデオを使おうと思ったのか」という質問に対して「私がビデオを選んだのではない。ビデオが私を選んだのだ」と言っていた。また、特別講義が終わった後の懇親会で「最初、アルヴィン・ルシエのもとで電子音楽を学んだ」と言っていたことを記憶している。ビルは《Ancient of Days》(1979-1981年)を完成させていた。この作品の制作には、当時のソニーの最先端のビデオ技術が使われている。時間経過を鮮やかに操作し、異なる時間・空間をひとつの画面に重畳した斬新な表現は、ビデオアートの新しい表現の地平を切り拓いた作品であることを強く印象づけた。この作品の技術サポートをしたソニーのエンジニアが今回の上映プログラムに入っている《Pyramid》の作者、篠原康雄氏である。篠原氏はエンジニアとしてソニーに勤務する傍ら作家としてビデオ作品を制作しており、1984年に発足し活動したビデオ・アート・グループ[10]のメンバーの一人でもあった。
大学院在学中に3/4U-maticを使って制作した習作が一作あるが[11]、ビデオ作品の制作を始めたのは、大学院を出てポストプロダクションのスタジオに勤務し始めてからである。その後、大学院時代の恩師である松本俊夫氏から声がかかり京都芸術短期大学(現在の京都芸術大学の前身となった短大)で教えることになった。今回の上映プログラムに入っている《Interference》(1986年)、《Fake Flick》(1989年)は、その時の作品である。Windows 95が発表されたのが1995年、Windows 3.1も発表されていなかった。それを思うと隔世の感がある。
私の映像制作の原点といえば学生時代に見たアメリカ実験映画である。とりわけ、スタン・ブラッケージ《Dog Star Man》(1961-1964年)、ポール・シャリッツ《T,O,U,C,H,I,N,G》(1968年)、ジョナス・メカス《リトアニアへの旅の追憶》(1972年)などの作品から受けた衝撃は鮮烈だった。もともと現代美術や現代音楽、現代詩が好きだったこともあり、実験映画も初めて見た時から強く惹かれた。思い返せば実験映画に触発されて、絵を描くように「時間を描く」ことを漠然と考えていたように思う。それは動く絵画といったものとは違うし、アニメーションでもない。記憶や回想のイメージを描くことでもなく、むしろ今ここで呼吸しているその現在進行形のフィジカルな時間のイメージを描くこと。フィルムによる映像作品も制作したが、私にとって「時間を描く」のに適したメディアはむしろビデオであった。リアルタイムで映像操作ができるからである。《Interference》[12]では、木を見上げる私の視線の時間、カメラを持った私の身体の時間、そのフィジカルな時間がわずかにずれて相互に干渉するかたちで織り込まれている。
註
(いながき たかし/映像作家)
篠原 康雄
私は1980年代前半に一瞬だが最前線にいると思っていた映像作家だった。《Pyramid》(1983年)はその頃のビデオ作品である。私はアンダーグラウンド志向であり制作方法も変わっていたが、アイドル主演の映画の特殊効果として使えないかと相談を受けるなど色々な方に興味を持って頂いた作品なので、四十年近く前の技術だが《Pyramid》について記述する。
だがその前に私とビデオとの出会いについて説明をすべきだろう。私はβマックスとVHSのビデオ戦争が始まった翌年の1977年、β陣営の研究開発拠点に新人として配属された機械系の技術者だった。そしてその年の暮れ、テープ幅が1/2インチのAV-8750というオープンリールの編集機を購入した。業務用としてカセット式のU-maticが既に標準となっていた時代だったが、価格的に手が届くフライングイレーズヘッドを搭載した編集機はそれだけだった。そのAV-8750は現在でも動かすことが出来る。私は南画廊の「山口勝弘 ビデオラマ展」(1977年)でCRTモニターを投光器のように使う表現方法や、身近な風景を素材とするビデオアートを見たことがあった。1978年に草月会館で催された日本で初めての「国際ビデオアート展Tokyo ’78」で、ナムジュン・パイクのパフォーマンスや中谷芙二子のインスタレーションに出会えたことは幸運だった。私がそこで体験したものは西欧の前衛美術とは異なる、もっと東洋的な世界だったし、技術屋が映像作品を作って良いのかというような疑問をそれらは吹き飛ばしてくれた。
残念ながら私は草月会館でのビル・ヴィオラのパフォーマンスを見ていない。ビルと初めて出会ったのは神田の真木画廊だった。1980年の夏のことであり、福岡市美術館学芸員の頃の帯金章郎の紹介だった。ビルと彼の奥さんで写真家のキラ・ペロフはその頃は六本木のアパートに住んでいた。経緯は良く覚えていないが、気が付いた時、ビルと私の2名は品川から京浜東北線に乗って大宮の富士フィルムへ向かっていた。目的は放送局用3管式ポータブルカメラに搭載する光学式ズームレンズの入手だった。そしてビルが購入したズームレンズの駆動系を私が改造した。民生用と異なりプロ用カメラのズームレンズは可変速であって、人差し指と中指の力加減でそのスピードがダイナミックに変化した。ビルの私への要求は、指先の力加減ではなく外部回路で制御し、極端にズームを遅く或いは早くすることや、その様々な固定スピードを連続的で且つ再現性高く設定可能とすることだった。今思えば無謀だった改造だが、スイス製のギアードDCモーターを製品の駆動系に組み込み、秋葉原の電気街で入手したポテンショメーターを使った回路で外部から制御してビルの要求に答えた。
ビル・ヴィオラの《Ancient of Days》(1979~81年)では、新宿駅東口のアルタビジョンや通行人のシーンが、ズームアップするスピードは一定のまま、通行人の歩くスピードが徐々に遅くなって、ついには殆ど動かなくなってしまう。撮影は丸の内線の改札へ降りて行く地下への階段を覆う平坦な屋根の上であり、ビルとキラと私がその屋根に登った。原宿のビデオギャラリーSCANで催された1981年春の第一回公募展審査員がビルであり、私は冬の京都を民生用ハンディーカメラで撮った映像を素材とした作品で入選した。その頃同じ課の同期が電気系の仕事でバラックの様なフレームメモリーと格闘していたので、休み時間だったと思うが、彼と一緒に私の揺れまくる映像素材を十数か所で唐突に静止画に切り替えた。フレームフリーズだったから時々ブレたが、それをそのまま素材とした感覚をビルが評価したのだと思った。
第23回高松宮殿下記念世界文化賞授賞式の翌日、2011年10月20日正午に絵画部門で受賞したビルやキラ、中谷芙二子、沖啓介、坂根巌夫や帯金夫妻も、東日本大震災が襲った海岸を、その30年前に撮影し制作されたビルの《はつゆめ》(1981年)のコンピューター編集や撮影機材を支援した、当時のソニー厚木工場の情報機器事業本部スタッフほぼ全員が私の共同住宅地下室に集まった。それは素晴らしい昼食会だった。私の父、篠原壽雄の著書『生きている禅』(木耳社、1963年)は鈴木大拙監修だが、地下室の壁面に飾ってあった大拙の書「無」の一字をビルが見ていた。禅の「無」は無観客の「無」や「ゼロ」とは違う概念のはずである。個人的には、大拙の英文著作を熱心に読んだと聞くビルの作品にしばしば現れる、スローダウンしていって画像がフリーズする寸前の静寂さの方が近い様に感じられる。
ここで1983年にビデオギャラリーSCANで企画して頂いた初めての個展のために制作した《Pyramid》に話を戻そう。私は先端的な機器を駆使した作品を作ろうと考えた。そして放送局用の映像を制作するスタジオのΩ巻き1インチVTRを同時に4台動かし、ノイズレス・スロースチルが可能なダイナミックトラッキングの技術を最大限生かす作品を思いついた。映像素材として滑らかに動く3DCGが必要だった。私は黎明期のCGに携わっていた東大美術サークルの頃からの友人鈴木正俊に相談した。鈴木は高輪の東海大学短期大学部でCGを教えていた先生から、導入されたばかりの米国エバンス&サザランド社のピクチャーシステムを1982年のある日曜の午後、数時間借用する許可を得た。鈴木は緻密なワイヤーフレームの四角錐が高速で回転するCGを当日一時間で制作。NTSCと周波数が違うモニター画面に出力されたCG映像をフリッカーが生じるが、業務用単管式カメラで私が撮影した。だが本業の方の民生用ビデオのテープ走行系の設計に追われていたし、資金を用意するためにも、そのCGを応用する作品制作を決行するまでに1年近く準備期間が必要だった。
翌年5月連休、原美術館の裏庭を撮影した直後、私はソニー厚木工場の技術者が、ビルからその操作性について様々な意見を聞いたというBVE5000で制御する編集システムを自己資金で借用した。そして1インチVTR4台中の2台に全く同じ美術館の裏庭の素材をセットし、3台目には3DCGの実写版(U-matic)を1インチに立ち上げた素材をセットした。クロマキー合成と同じような感覚で輝度の閾値でも映像の一部分を切り取り、そこに別の映像をはめ込むことが出来た。黒い背景の中央で回転する四角錐は、沢山の白い線分で緻密に構成され、面の様に見えたが、その二値化された映像で1台目の定速で再生した1インチVTRの映像をくり抜き、2台目のその部分の映像をはめ込んだ。そして2台目の1インチVTRは私自身が手でダイヤルを操作し、磁気テープの走行スピードを変化させた。全く同じ映像素材であっても互いに1フレームずれたら、4台目の1インチVTRに記録される合成画像は回転する四角錐の輪郭が見える。1台目に対して2台目の映像の時間軸を揺らす作業は成り行きに任せる予定だったが、あまりにもダイヤルが敏感に反応したため、実際には四角錐の輪郭が一瞬でも消えて見えなくなるように、必死になってダイヤルを操作し続けなければならなかった。サウンドは稲垣貴士が快く引き受けてくれた。会社のレクデーで課員の大半がその年に開園した東京ディズニーランドヘ向かった日の夜、稲垣や彼の発売間もないヤマハのDX7と録音機材を車に乗せて五反田の作業場へ運んだ。その途中、私が運転していた車が停止し切れず、路肩にあった無人の乗用車に衝突した。交番で冷や汗をかきながら運転歴が浅かった私はおおいに反省したし、車を運転したのはそれがほぼ最後になったと思うが、稲垣のサウンドは素晴らしかった。何時の事か思い出せないが、ビル・ヴィオラが私に聞き取れるように“time shape”と言ったことがある。私は全く同じ2つの映像素材の1つ目が地で2つ目を図として合成する際、図の方の時間軸に揺らぎを持たせた。高速で回転する四角錐は、輪郭のみを時間のずれが描く形として認識することができる。
27インチのトリニトロンの画面を天井に向け、バフで磨いた透明なアクリルの四角錐をその上に置き、真上から《Pyramid》の映像を覗きこむ立体作品を制作したことがある。それは有楽町西武で松本俊夫や島野義孝の作品と共に「平面と立体のメビウスの輪」というテーマで展示された。私は今も自分のビデオ作品はフラットパネルディスプレイ(FPD)ではなくCRTで見る方が良いと思っている。
(しのはら やすお/映像作家)
佐々木 成明
・「ビデオひろば」から「ビデオギャラリーSCAN」へ
70年代の自由主義と反戦運動のムーブメントは、アートとメディアの新たな活動を促した。そのような時代に、山口勝弘、松本俊夫、中谷芙二子、かわなかのぶひろ、小林はくどう、萩原朔美が参加した実験的映像グループ「ビデオひろば」が1972年に日本で結成された。彼らはヴィデオを新たな可能性を秘めたメディアと捉え、市民運動を支援するなど、既存のマスメディア概念を越えた新たな映像表現とコミュニケーションのかたちを模索した。
ビデオひろばの先駆的アプローチから約10年を経た1980年に東京原宿で中谷芙二子によって設立されたのがヴィデオ・アート専門の「ビデオギャラリーSCAN」であった。SCANは「ヴィデオ・テレビジョン・フェスティバル」(1987年、1989年 1992年、青山スパイラル)などの開催を通して国内外のヴィデオ・アートの動向を伝える活動を精力的に行った。アーティストの個展や、年2回の新作公募展を開催したSCANは国内アーティストの輩出と交流の場としても機能した。
ヴィデオの走査線を表し、物事を探査し入念に見ることを意味するSCANという名称はヴィデオ・アーティストのビル・ヴィオラによる命名である。
SCAN以外の動向に触れておくと、80年代のヴィデオ・アートに関する特質すべき展覧会としては「ナムジュン・パイク展—ヴィデオ・アートを中心に」(1984年、東京都美術館)、「ビデオ・カクテル」(1984年、駒井画廊、1986年、原美術館)、「ふくい国際ビデオビエンナーレ」(1985年から99年まで8回開催、福井県立美術館)、グループ・アール・ジュニによる「ハイ・テクノロジー・アート展」(1986年、池袋サンシャインシティー)、「第4回現代芸術祭—映像の今日」(1989年、富山県立近代美術館)、そして「ブライアン・イーノ—ビデオアートと環境音楽の世界」(1983年、ラフォーレミュージアム赤坂)と、後述する筑波博でのラジカルTVと坂本龍一によるライブ《TV WAR》(1985年)、さらに世界規模のヴィデオ・マガジン「INFERMENTAL 8」(1988年)の東京での制作などが挙げられる。
・活動の場を越境していった80年代のヴィデオ・アーティストたち
SCANに集う80年代の日本のヴィデオ・アーティストたちの多くは、空間・時間・記録をテーマとした日本独自というべき感性を窺わせていた。東洋思想や日本の俳句などに多分な興味を示したビル・ヴィオラやゲーリー・ヒルたちの作品にインスパイアされつつ、独自の眼差しで、目の前にある世界をヴィデオ記録で捉え表そうとした。黒塚直子、斎藤信、島野義孝らの作品がこれに該当するであろう。その一方で、デジタル以前というべきこの時代に斬新的と捉えられた画像を湾曲させるなどのエフェクトや、グラフィカルな映像加工の技術を駆使して作品を制作する篠原康雄や大山麻里のような作家もいた。
これらは80年代の日本のヴィデオ・アート作品の特徴であって、先行する70年代のビデオひろば世代が抱えていたテーマ性とは異なる動向であった。
80年代は家庭用ヴィデオの普及が進み、デジタルという言葉よりもA&V(オーディオ&ヴィジュアル)で語られるのが一般的であった。この新しい映像メディアの発展と、その潮流の一端をヴィデオ・アーティストたちが担っていたといっていいだろう。
美術館の展示でヴィデオの使用がようやく始まった時代であったが、他の分野でもアーティストたちの活躍が数多く散見された。
邱世源たちによるスキャニング・プールは、レーベルとしてレコードではなくヴィデオで音楽作品をリリースしていた。タイレル・コーポレーションの川口真央や中野裕之たちはテレビ番組やミュージック・クリップなどを手がけた。六本木インクスティックなどで開催された「フジAVライブ」(1986〜1988年)では、多くのメディア・アーティストたちが音楽のアーティストとのコラボレーションを行った。これらの例のようにヴィデオ・アートの作家たちが、日本の映像文化を担う人材として様々な分野で頭角をみせていた。
ヴィデオの映像は、80年代を通して新しいエンターテイメントとして発展したが、その代表格として紹介できるのがミュージック・ヴィデオであった。1981年に開局されたアメリカのケーブルテレビ局MTVが最初に放映したミュージック・ヴィデオはバグルスの「ラジオ・スターの悲劇」(原題Video Killed the Radio Star)だ。ダンス・パフォーマンスが話題となったマイケル・ジャクソンの「スリラー」は1982年の作品だった。YouTubeの再生回数が2020年に10億回を突破したa-haの「Take On Me」が制作されたのは1986年であった。
1969年から制作が始められた「パイク=アベ・ヴィデオ・シンセサイザー」から 15年後の1984年に登場したフェアライトCVI(Computer Video Instrument)は、スタジオで使用されていた日本電気株式会社(NEC)のDVE SYSTEM10や、Abekas社のA-62などの高価なデジタル・ヴィデオ・エフェクト機器の機能を、シンセサイザーのように操作できるデバイスであった。これらのヴィデオ・エフェクターを使用したヴィデオ・プレーは現在のVJカルチャーの萌芽といえよう。
ブライアン・イーノの個展を経て一般にも知られるようになった「環境ヴィデオ」や「ヴィデオ・ドラッグ」と称されていたような作品の普及や、筑波万博 (国際科学技術博覧会)でソニーの巨大なモニター「ジャンボトロン」を使用したラジカルTVと坂本龍一によるライブ《TV WAR》も、この時代の潮流の一つとして挙げられる。
いわゆるバブル景気といわれた80年代のヴィデオ・アートは、70年代と異なり、祝祭的なものや、エンターテーメント的な要素が強かった。
・上映作品《アリアトリック・デシネ》について
第21回中之島映像劇場「美術館と映像―ビデオアートの上映・保存―」の上映に加えて頂いた自作《アリアトリック・デシネ》(1988年)にも当時の状況とその影響がうかがえる。
この作品がいくつかのショート・ムービーによるオムニバス形式で連なっているのは、1984年にパリとニューヨークを繋いで開催されたナムジュン・パイクによるサテライト・アート《グッド・モーニング・ミスター・オーウェル》と同じく、小作品で構成されたテレビプログラムの様なものを想定していたからだ(ジョージ・オーウェルの小説『1984年』(1949年)で予言されていたディストピア世界をアイロニカルに捉えたこのサテライトのプログラムにはジョン・ケージ、シンガーのサッフォー、ヨーゼフ・ボイス、マース・カニングハムといった時代のスターたちが出演していた)。
8つのヴィデオ・モニターの映像がシンクロして再生されるインスタレーション形式というのは、この時代に多くのアーティストが行っていたイントレ型モニターを積み上げるヴィデオ・マトリックスの形式である。(使用していたモニターはヒビノ株式会社から払い下げして頂いたイベント用のモニターであった)
数つかの楽曲で構成されるレコードアルバムのように小作品から成り立つプログラムを構想していた。各作品はどれもが時間や空間についての考察や実験的試みで、それぞれが言語を介さない映像詩として成立するように制作している。
美大のアトリエで行われるデッサンはモチーフを祀る宗教的祭礼やメディテーション行為のようであり、モチーフを取り囲む画学生たちのデッサンを集めてコマドリすると回転するアニメ—ションになる。カフェの空間では人々がみな同じように語らい同じような動きをしているが、その情景はミニマルな美しさをもつ。通行する電車の先端と終わりを編集で繋げてしまうと電車がもつ暴力的な移動が強化される… このような断片的イメージを延々と束ねていく。
表現手法としては、この時代に自分が傾倒していた二次元の錯視—トロンプルイユ(だまし絵)の表現や、映像の倍速再生、合成の技法などが使われている。
タイトルの「アリアトリック・デシネ」とは、オペラなどで歌われる旋律的な独唱曲を意味するイタリア語の「アリア」とフランス語で素描や線で描くことを表す「デシネー」を連ねた造語で、ステファヌ・マラルメの詩作と書籍編集の手法からアイデアを得ている。
詩(イメージ)は言葉や図像を連ねて貼り合わせることで生まれるが、そのイメージは投げられるサイコロ(骰子)の目のように幾通りもの組みあわせが可能である。マルチモニターで複数の映像が同時に再生されるこの作品では、パラレルなイメージ(動画)が時空間のブリコラージュとして、8台のモニター上でバラバラに再生されているのだが、どのような組み合わせで見たかによって印象が異なる。鑑賞の偶然性が作品の重要な要素のひとつになっているのだ。
マラルメが提唱し、自ら実践した、偶然の持続や文字同士の関係性を意識したレイアウトの書物は、現代音楽の「図形楽譜」と同じく、当時の私にとって美しい偶然が宿る魅力的なものであった。
映像メディアは、目眩(イリンクス)という体感的な喜びとともに、論理的に意味や思想を紡ぎ出す可能性にみちているという思考から、私はこの作品を1988年に制作した。
※上映に当たって
この作品は自分の周りに散らばっていた 80 年代の映像文化を、統合的に捉えようとする試みとして制作した大学院の修了制作作品であった。出演して頂いた「パパ・タラフマラ」のパフォーマーのみなさんやアルフレッド・バーンバウムさん、30年ぶりの上映に当たって、制作に協力頂いた方々、そして素晴らしい楽曲の使用を許諾してくださった当時私の周りにいた才能あふれる音楽家のみなさんに、この場を借りて改めてお礼を述べさせていただきたい。「ありがとうございました!」
(ささき なるあき/映像作家)
藤原 理子
株式会社IMAGICAエンタテインメントメディアサービス(旧東洋現像所/IMAGICA)は、1935年に映画フィルムの現像所として誕生しました。現在は、新作映画の制作や流通にかかわる技術サービスを主として提供しています。映画制作を取り巻く状況は、主流としてはフィルムからデジタルに移行していますが、ありがたいことにフィルムで撮影される映画や、作品の長期保存のためにフィルムというメディアを選択される作品もまだまだあり、2021年も現役の現像所として機能しています。著者はそんなフィルムラボ(現像所)のコーディネーターとして、映像音声資料のデジタル化、物理メディアの長期保存や複製に関わってきました。分野としては、実験映画と呼ばれる作品を多く担当しています。実験映画は通常の映画作品と比較し、作品ごとにいろいろな難しさがありますが、そのおかげでどの作業も驚きに満ち溢れた楽しい冒険の旅となります。ただ、この旅はラボだけではできません。作品を本来の形で未来に残すためには、いつでも映像作家さんの想いを汲んでくださる学芸員さんや研究者さんと二人三脚で歩まなくてはなくてはなりません。今回は実験映画やビデオアートのデジタル化について、その工程を詳しくご紹介します。
実験映画やビデオアートのデジタル化の際に一番重要な工程は、どの素材をデジタル化の対象とすべきか決定することにあります。
デジタル化を検討する際は、フィルムもテープもなるべくオリジナルに近いものを素材とすることが望ましいのです。なぜなら、劣化症状を別にすればコピーされた複製物よりもオリジナルの素材が一番多くの情報量を持っており、良い画質が得られる可能性があるからです。商業ベースのシステムのなかで作られた劇映画や、TV番組・CMだと、マスター<原版>の作り方に一定のルールがあり、多くがその既存のルールに沿って作られ、保管されています。ラベルに<原版>と表記があれば、それが完成品であることがほとんどで、素材選定はそこまで難しくありません。逆にコピーされた複製物は、上映・放送用に量産したものが多く、よりよいデジタル化の素材としては最適とは言えません。
我々ラボの人間は、メディアそのものに残った編集や複製の痕跡、フィルムのラベル・テープの記録表などの文字情報を読み解けば、そのメディアの当時の用途を推測することができます。
しかし実験映画やビデオアートの場合は、商業ベースの映画制作の常識にとらわれずに制作された作品が多く、何がオリジナルなのかを探るためには、丁寧に素材を見定めなければなりません。時にはテープ毎で編集を替えていたり、音のバージョンが複数あったり、上映用のコピーだけが最終版として残っているケースもあります。もちろん、収蔵物やメディアの劣化によりアクセスできる素材が限られている場合もあるので、アクセスできる中で何が最善かということを探る姿勢が重要かと思います。
ラボが物理メディアから予測できる範囲や、アクセスできる作品情報にはどうしても限界があります。学芸員さんや研究者さんに橋渡しをしていただき、映像作家さんから製作・上映当時の状況についてお話をうかがえると、とても助けになります。作家が不在の場合でも、上映当時の様子などの記録が文章や写真に残っていれば、そういったものも参考にしながら素材選定を行います。
今回の中之島映像劇場において上映される、国立国際美術館様が保管してきたビデオアートのデジタル化についてはマスターテープからのデジタイズではなく、所蔵されていた3/4インチテープからのデジタル化を行いました[註]。
3/4インチテープはすでにデッキの保守も終了しており、現在はラボなどでデッキのメンテナンスを行いながら、なんとか再生を保っているメディアです。今回は、とてもすばらしい状態でテープを保管くださっていたので、問題なく作業ができました。しかしながら、3/4インチはメディア自体も数十年前に生産されたものなので、基本的には劣化の心配があり、早めのデジタル化を推奨しています。アクセスできるメディアが限られている場合でも、ラボの判断で勝手に画質を変えてしまうのではなく、話合いの中でデジタル化後のコーデックや変換方法を決め、そのメディアの持てる情報をそこなわないよう誠実に向き合いながら作業を進めていくことが必要かと思います。
素材選定が済んだテープやフィルムは、物理的なクリーニングやチェックを経て、いよいよデジタル化の工程に移ります。
実験映画やビデオアートではここで、「どこまでが作品として意図されたものなのかが分かりづらい」という問題が頻出します。フィルムについた傷やゴミ、複製時の事故で焼きこまれてしまった虫などは、通常の修復作業では取り除かれるべき存在です。ところが実験映画では、フィルムに意図的に直接傷をつけたり、穴をあけたり、ペンで直接描いたり、葉っぱなどの不純物を焼きこんだりしている作品もあります。通常の工程で作業をしていくと、こういったものは「消すべき対象」と認識されてしまいます。磁気ビデオテープ素材のビデオアートでも、テープ特有の各種ノイズや「揺らぎ」のような要素をきれいに取り除くのではなくむしろ強調することで、鑑賞者に神秘性や幽玄の感覚を伝える意図をもった作品もあります。単純に高解像度化・画質化してしまうと、そういった作品の良さまでもが不要なノイズとして消えてしまうことがあります。
色味にも注意が必要です。制作当時は高価だったカラーネガを使わずに、安価だったモノクロフィルムを代用し、当時のプリントの技術で着色してカラー作品としている作品もあります。素材のネガを見るだけでは、その作品がカラーとして意図されていたかどうかはわかりません。見本となる上映素材や、作品がどのようなものであったかという情報がないと、制作当時の意図に忠実なデジタル化はできないのです。
作家がご存命の場合は、修復や色味の方向性について、作家・学芸員・研究者のお立合いで確認作業を行うケースもあります。ご来社が難しい場合でも、中間のデータをお送りしてコメントをいただくこともあります。もちろん全てのデジタル化の作業でこうした確認作業などを行えるわけではありませんが、こういったコミュニケーションが、正しく作品を残していくためにはとても重要です。
もちろん保存対象となるデータに何を選ぶかということも考えなければなりません。MP4は非常に軽量で転送や管理がしやすい動画データ形式ですが、圧縮率が高く画質が落ちてしまいます。高品質な動画形式にはApple ProResなどがあげられます。フィルム作品などでより高品位なデータ保管を望む場合は、フィルムの1コマに対して1枚の静止画を保存していく方法もありますが、動画と比較しデータ量が膨大になってしまいます。データの使用用途について、学芸員さんや研究員さんと確認しながら、適切なデータ形式を決定しています。
デジタル化や複製が済んだら、そこで終わりということはありません。フィルムは100年超えても上映システムが変わらず、きちんと温湿度管理などのケアをすればメディア自体の寿命も長持ちします。しかし、デジタルのドライブや再生機の変遷はとても激しいので、きちんとケアしないと映像データを取り出せなくなってしまいます。
フロッピーディスクはたった30年前は最新のメディアでしたが、いまでは簡単に使うことはできません。市販のPCにはリーダーが付いていませんし、中身のデータが取り出せても、今は使われていないデータ形式だったりして、正常・簡単に使うことはできません。ほとんどの業務用VTRテープも、すでにVTRデッキのメーカーサポートが終了しています。現存しているVTRデッキが故障してしまえば、これらのテープを見ることはもうできません。
しかし、きちんと定期的に取り出して、その時代のメディアに移し替える(データマイグレーション)ことで、データの寿命は延ばすことができます。現在映像業界ではLTOやODAといった長期保存に適し、比較的格納可能な容量の大きいメディアや、より自由度の高いクラウドが保管媒体として選択されるケースが増えてきました。HDDは取り回しがしやすく、普段の取り扱いには最適ですが、物理的な衝撃に弱く、データが消えてしまう可能性があります。普段使い用にはHDD、長期保存用としてLTO、ODA、クラウドストレージなどにバックアップをとることをお勧めします。
データそのものをきちんと残すだけでも、十分とは言えません。デジタルの映像データはデジタル化の際にどのような判断を行い、どのような上映を想定して作業をしたかという付帯情報を残しておくことが重要です。それらの付帯情報があってはじめて、将来の利用者が正しく活用できるのです。作者の意図をくみ取り、発表当時に観客に与えた鑑賞体験と同等の体験を可能にする力を持った映像として保存するために、こうした情報をファイル名やデータ記録表の形で残していくことも、現在のラボの使命のひとつかと思います。
^註 田中晋平「あいまいな美術館の映像/資料―中之島映像劇場について⑦―」『国立国際美術館ニュース』 第241号、7頁。
(ふじわら りこ/株式会社IMAGICAエンタテインメントメディアサービスメディア営業部 フィルム・アーカイブ営業グループ)
前田 真二郎
中学生の頃、美術部の数名でギリシャ神話を原作にアニメーションを作った。タップと呼ばれる金具と動画用紙を使って鉛筆で作画したものを8mmフィルムカメラでコマ撮りしていくのだが、なかなか手間が掛かかる作業だった。しかも、出来上がった8mmフィルムの画質は暗くぼんやりしていて、とても満足できるものではなかった。一緒に作っていた同級生に突出した画力を持った、篠塚勉くんがいた。彼はその後、高校2年時にひとりで《風 一分四十秒》を作り、第1回広島アニメーション・フェスティバルで入賞を果たした。違う高校に進んだ彼とは、しばらく会っていなかったのだが、偶然見ていたテレビで彼の名前と作品が紹介され、そのことを知った。作品は、騎馬武者の合戦の様子を、縦横無尽な視点移動で表現した手描きアニメーションで、全編が放映された。出演していた手塚治虫氏が「今後もぜひ制作を続けて欲しい」とコメントしていた。個人による映像作品について考えていると、この出来事をふと思い出す。
80年代中頃、高校生だった私は、以前より愛聴していたテクノポップのグループ、YMOからの影響もあり、4トラックMTRによる宅録に夢中だった。バンドを組んで演奏することよりも、カセットテープに音を重ねて、音楽らしきものを制作することの方が楽しかった。個人による映像制作に必要となる発想は、この時に培われたように思う。また、YMOからの影響は広範囲に及び、映画監督のゴダールやコクトー、ビデオ・アーティストのパイクといった名前を中学生の頃から知っていたのは、憧れのメンバーが雑誌などで言及していたからに違いなかった。高校時代は、美術部の先輩や友人からも大いに影響を受け、情報誌『プレイガイドジャーナル』を片手に、例えば、吹田映劇での「ヌーベルバーグシネマ3本立て」や、オレンジルームでの「劇団日本維新派記録映像上映会」といった自主上映イベントに足を運んでいた。十分に理解できない作品もあったはずだが、未知なるものに触れる体験に飽きることはなかった。
1988年に京都精華大学美術学部デザイン学科に入学した。自由な雰囲気があり、絵画、写真、版画など、メディアを限定せずに表現を模索した。省みると、彫刻や空間表現、パフォーマンスには関心が薄く、平面への執着が強かったように思う。学部時代の映像制作は独学によるものだった。もちろん映像表現には強い興味があったのだが、制作に着手できたのは「パスポートサイズ」の小型ビデオカメラ、SONY CCD-TR55を友人から借りることができたことが大きい。ビデオ機材には、放送用、業務用、家庭用といったメーカーが定めるランクがあるのだが、先の2つは、放送局やプロのスタジオでの使用を想定した高額な機器だ。家庭用とはテレビ番組の録画や、いわゆるホームビデオの撮影を目的としたものだった。この時期、家庭用ビデオデッキとビデオカメラは普及し始めていたが、手間が掛かるビデオ編集は一般的ではなかった。編集するにはビデオデッキが2台必要だった。まず、1台目で必要な映像素材を再生させ、2台目でその部分を録画する。そして、1台目で先ほどと違う映像素材を再生し、2台目は、先ほどの続きから録画する。この繰り返しで映像のカットを繋いでいくわけだ。ビデオ編集とは、ビデオテープに含まれる映像素材を、もう一本のビデオテープに、順番やカットの長さを気にしながらコピーしていくことだった。感覚としては、版画の多色刷りの制作プロセスに近いかもしれない。制作上の大きな問題は、家庭用ビデオデッキの録画性能が低いことから、コピーした画質が大幅に劣化してしまうことだった。当時、テレビ放送と家庭用ビデオの画質には雲泥の差があり、それはプロとアマチュアの境界をはっきりと意識させるものだった。フィルム方式も同様だった。劇場用の映画は35mmフィルムが標準であり、記録映画などでは16mmが使われ、ホームムービーを撮影する用途として8mmフィルムがあった。個人による映像表現、実験映画の領域では、本格的な作品は16mmによるものが多かったが、当時の国内では8mmによる作品も決して少なくなかった。
そのような状況のなか、編集作業は大学のAVセンターで行なっていた。この施設には業務用の機材はなかったが、比較的性能の良い2台のビデオデッキが編集用に設置されていた。簡易なビデオエフェクターや、映像の入出力端子を備え、画像処理ができる、National(松下電器産業)のMSXパソコンなどもあった。また、その施設には豊富な視聴覚資料があった。オスカー・フィッシンガーやノーマン・マクラレンなどの実験アニメーションが収録されたレーザーディスク『映像の先駆者シリーズ』も所蔵されていた。ナムジュン・パイクやビル・ヴィオラのビデオアートもそこで見たはずだ。学外ではビデオレンタルショップに通い、映画史において重要とされる映画や、ミニシアター系と呼ばれる映画を多く見ていた。百万遍の交差点近くに「STATION」という、信じられないほど充実した品揃えの店があったことも忘れられない。タルコフスキー監督についてのドキュメンタリーから、イメージフォーラム(ダゲレオ出版)が少部数販売していた《かわなかのぶひろ作品集》といったものまで配架されていた。しかしながら、国内外のほとんどの実験映画はビデオ化されておらず、そのような作品が見たければ、劇場上映の機会が訪れるのを待ち続けるしかなかった。レンタルではなくセルビデオの状況で言えば、当時のビデオソフトの価格は高額で、学生が気軽に購入できる代物ではなかった。一部例外的に、価格の安いビデオソフトも登場し始めていた。アスク講談社から発売された中野裕之監督の《VIDEO DRUG2 PHUTUR》(1990年)は、比較的安価だったので手に入れた覚えがある。音楽がCDで流通するように、個人による映像がVHSテープで流通する日がこれからきっと来るのだろうと夢想していた。
90年代初頭の美術領域において、映像メディアを使用した作品は決して多くはなかった。液晶ディスプレイが登場する以前の表示装置は、重たい立方体の形をした「ブラウン管モニター」以外の選択肢はなかった。また、ビデオプロジェクターについては、筐体は大型で扱い辛く、投影画面の明るさは16mmフィルムの投影に比べても見劣りするものだった。今から振り返れば、映像インスタレーションを制作するための機材は十分に揃っていなかった。このような状況のなかで見た、京都市美術館でのDUMB TYPEによる《pH》(1991年)や、コンプレッソ・プラスティコによる、なんばシティホールでの展覧会(1993年)などは、近未来のテクノロジーやメディア環境における⾝体を意識させるもので、映像メディアを扱った表現として別格だった。個人による映像作品としては、京都では「ヴォワイアン・シネマテーク」や、同世代の友人も参加していた「カマンベール」といったグループが、多目的スペースやギャラリーなどで上映や展示を行なっていた。これは今でも同じなのかもしれないが、自分で骨を折って探さないと、新たな映像表現に出会うことはできなかった。そして、映像を扱う作家のほとんどは、十分とは言えない機材を工夫して制作していた。PCやインターネットが普及するのは1995年以降のことで、YouTubeの設立はその10年後の2005年である。大学院を修了する1994年までの私の学生時代は、スマホどころか携帯電話さえ普及しておらず、DVDもまだ登場していなかった。私自身について言えば、活動や発表をしていく領域について長く考えていた。映画でもなく美術でもない領域、もしくは逆に、映画でもあり美術でもあるような、個人による映像表現の発表の場を探していた。映像作家という肩書があることを知り、それを意識し始めていた。
何かしらの企画に出品したものをデビュー作とするなら《20》(1990年)がそれにあたる。20歳の時に制作したセルフ・ポートレート作品だ。ある日、ビデオテープには寿命があることを聞かされたのだが、なぜだか、その事実が非常にショックで、そうであるなら初めから劣化した質感で作ろうと取り組んだ。複数の映像入力端子のあるテレビに映像素材を複数同時に入力させると、映像が不安定に歪んで表示されることを見つけ、その画面を撮影した。撮影時のスローシャッター設定や、ビデオエフェクターによって、画面の見え方を調整し、ビデオ特有の質感を引き出そうとした。この5分の作品は、「イメージフォーラム・フェスティバル1991」のヤング・パースペクティブ部門に入選した。入賞作品ではなかったにも関わらず、審査員の佐藤忠男氏、西嶋憲生氏、マイケル・スノウ氏による短いコメントがカタログに掲載され、励みになった。「第一回ふくい国際青年メディアアートフェスティバル」にも選出された。
その後、いくつかの習作を経て《FORGET AND FORGIVE》(1991年)を作った。忘却と想起を体感させることを目指して3部構成を採用した作品だった。また、前述の《20》は、出来上がった映像に音楽をつけて完成としたが、本作では、映像と音響の関係が互いに従属せず、一体化した表現になることを念頭に置いた。「イメージフォーラム・フェスティバル1992」にて、エクスペリメンタル・イマジネーション賞を受賞し、その後、多数の上映会に出品した。その頃はまだ、大判の絵画などにも取り組んでいたが、いよいよ映像表現に集中する気持ちが高まり、大学院に進学することを決めた。ビデオアートが専門の伊奈新祐先生が主担当で、当時、京都芸術短期大学(現・京都芸術大学)の映像コースを牽引していた松本俊夫先生に副査で来ていただいた。日本戦後美術史や実験映画の歴史を体系的に学んだのはその時期だった。
そんな、《FORGET AND FORGIVE》の次に制作したのが、《VIDEO SWIMMER IN BLUE》(1992年)だ。本作では《20》で取り組んだ、ビデオノイズの質感表現をさらに拡張したい欲求もあったのだが、そのことよりも《FORGET AND FORGIVE》での制作時に意識していた「新たな話法」への関心が強かった。全編に渡って最小限の言語(英単語)を周期的に表示させ、「読みながら見る」といった構造を持たせた。当時の新しいテレビには、ブルースクリーンモードが実装されていた。本作は、このブルー画面から着想を得ている。従来のテレビは、放送やビデオ信号の入力がない状態には、ザーという音声とともに「砂嵐」が画面に表示された。「サンドストーム」や「スノーノイズ」と呼ばれるもので、かつて、番組終了後の深夜のテレビは、これを映し出していた。この「砂嵐」は視聴者にとっては不要な、まさに「ノイズ」だった。ブルースクリーンモードとは、無地のフラットなブルーをテレビ画面に表示させる機能だ。この機能が「ノイズ」を隠すためのものと気づいたとき、これはまさに我々が生きる、近代から続く現代社会を象徴するものだと感じたのだった。「砂嵐で始まり砂嵐で終わるビデオについての物語」を構想するなかで、「野蛮なノイズを隠蔽し、フラットに向かう社会」という主題を見つけ、「日曜の夜遅くに、ブルーに関する考え事をしている/0時のベルが鳴り、ブルー・マンデーを迎える」といった2部構成に落とし込んだ。“VIDEO SWIMMER”は私の造語である。それは、フラットなブルーの向こう側にいるはずの、非物質なカオスを自由奔放に泳ぐ、原始の運動体ではなかっただろうか。前作までの音響設計は、工夫したとはいえ、すでにある音楽の効果が強く反映されたものだった。この作品では、いわゆる旋律やリズムを感じさせる楽曲は使用せず、いわゆるノイズのような抽象音で構成し、前半では、近・現代といった時代の象徴的な音である、蒸気機関車や車の騒音などの具体音も挿入した。本作は、「イメージフォーラム・フェスティバル 1993」にて、ビデオ・オリジナリティ賞を受賞した。ちなみにこの年の大賞作品は具志堅剛監督の《たたかう兎》で、これは8mmによる約40分の作品だった。その他の入賞作品9本の内訳は、8mm作品が6本、16mm作品が1本、ビデオ作品は2本だった。河瀨直美監督の《につつまれて》が奨励賞を受賞していたが、これも8mmの作品だった。その後、《VIDEO SWIMMER IN BLUE》はロンドンのICAなど海外でも上映された。「ヴォワイアン・シネマテーク」の⼩池照男⽒がハンガリーの映画祭“RETINA”のプログラムに選出してくれたことも嬉しかった。
1994年にキリンプラザ大阪で「日本実験映像40年史展」が開催された、40年間を対象に、時代ごとの代表作を一望する大規模な企画だった。これに《VIDEO SWIMMER IN BLUE》は選出されている。そして、翌年の1995年7月、個人映像についての唯一と言ってもよい批評誌『月刊イメージフォーラム』が休刊となる。その2ヶ月後の9月にDVビデオカメラの第一号機であるSONY DCR-VX1000が発売されたことは象徴的な出来事に思える。阪神淡路大震災やオウム事件のあったこの年、Windows 95の発売で一気にPCとインターネットが社会に拡がっていった。アナログによる映像表現の時代が区切りをつけ、未知なる荒地が広がっているように感じていた。私の最初期の作品群は、我々のメディア環境がデジタルに移行する前夜の「アナログビデオ作品」と言えるだろう。80年代後半には、映像表現を含めたビジュアル・カルチャーの最前線は、実験映画やビデオアートといった個人によるものから、MTVやCFといった「広告」に場所を移していたように思う。「文化が経済に飲みこまれた」と当時、誰かが言っていたが、自分は、だからこそ、個人の表現に踏みとどまることに価値を見出していたのだろう。十分とはいえない制作環境を逆手にとっての作品づくりは、もちろん無理があるもので、技術的な未熟さについては当時から自覚もあった。けれど、開き直る潔さは、若さだけが理由ではなかったはずだ。
(まえだ しんじろう/映像作家)
狩野 志歩
映画が誕生して120年余り、映像表現をとりまく環境は(あらゆる芸術領域にもいえるが)テクノロジーの変化に影響を受けてきた。フィルムの小型化によって映画が個人でも制作できるようになったことと同じように、1960年代、ソニーの携帯型ビデオカメラ「ポータパック」の出現によって、個人による表現手段としてビデオが扱われるようになり、1970年代にかけて日本でもビデオアートが花開いたことはよく知られている。フィルムの物質性や間欠運動、ビデオの同時性やフィードバックといった機構的な特性は多くの美術家、映像作家の創造性を刺激してきたが、現代においても、たとえその表層に現れなくとも、メディアの特性が作品の本質と深く結びついていることは、改めて自覚する必要があると思う。
私が創作活動をはじめた1990年代後半は8mmや16mmフィルムの製造・現像はまだ行われていて、ビデオはアナログビデオ(Hi-8)からデジタルビデオ(DV)へ移行しつつある時期だった。実際、初期の数本はフィルムで制作され、2000年に最初のビデオ作品を発表している。今回、1990年代から2000年代初頭の創作活動を振り返る機会を得て、当時の制作環境を思い出してみると、アナログメディアとデジタルメディアが拮抗し、混沌としているような時代だった。
私が映像を学んだのは、1993年に東京の美大に入ってからだったが、高校時代に写真の技術をある程度習得していたことが、その後の活動に大きく影響を与えている。本当は美術部に憧れていたが、絵が下手だったことから、画力が求められなさそうというだけの理由で写真部に所属していた。デジタルカメラはまだ一般に普及しておらず、銀座の中古カメラ店でPENTAXの古いフィルムカメラを購入し、暗室でフィルムを現像し、印画紙に焼いていた。インターネットもなかったので、情報源は専ら『アサヒカメラ』や『日本カメラ』といった写真専門誌だった。アマチュアカメラマンが投稿した、お花畑で微笑む女性の写真を見て、何とも言えない気持ちになったものだった。そんな時に雑誌『WAVE』[註]の現代写真特集で、宮本隆司、港千尋、柴田敏雄、といった写真家の存在を知ったことと、横浜美術館で実験映画の上映を見たことが、美大へ進みたいという思いに繋がっていく。なかでも、萩原朔美の《TIME》(1971年)と黒坂圭太の《海の唄》(1988年)に衝撃を受けた。《TIME》はりんごが腐っていく様を1年間かけてコマ撮りした作品で、《海の唄》はハイコントラストなモノクロ写真で撮影された漁村の風景が、痙攣するような運動とともに入れ子状に移動していく作品で、どちらもこれまでに経験したことのない鮮烈な視覚体験をもたらすものだった。
当時、東京の美大で映像を学べるところは殆どなかったが、武蔵野美術大学に映像学科があることを知ったので、美術予備校を訪ね、映像学科を受験したいと伝えると、意外にもあっさり門前払いされた。映像学科に対応するコースが無い、というのが理由だった。武蔵美の映像学科は1990年に開設してまだ2年しか経っておらず、第1期生すら卒業していなかった。全国の芸大・美大に「映像」や「メディア芸術」を冠する学科が次々と開設されるのは、1990年代後半から2000年代まで待たなければならなかった。
そして、補欠合格でなんとか入学を叶えた日、《海の唄》の作者その人がいたことに驚く。以降黒坂圭太氏に師事することになるが、大学のアトリエで夜遅くまで絵コンテや原画を描いている姿が印象的だった。思い返してみると、作家の仕事を間近に見ることができる、なんと贅沢な環境だったろう。
大学で最初に制作したアニメーションは、スチールカメラでモデルの動きを撮影し、暗室で1枚1枚プリントした印画紙を切り貼りして原画を作り、ボレックスという16mmフィルムカメラで1コマ1コマ撮影した。ビデオよりもフィルムカメラのほうがコマ単位での制御がし易かったが、編集や音入れはビデオのほうが簡易で安価だったことから、撮影した16mmフィルムを繋いだものをラボでビデオ変換(テレシネ)してもらい、大学のビデオ編集機(リニア編集)で音を入れて完成させた。東京郊外の大学から電車を1時間程乗り継いだ渋谷にヨコシネD.I.Yがあり、そこに撮影済みのフィルムを持ち込むと翌夕には現像が終わってプリントが仕上がっている。撮影が始まると大学と現像所を毎日のように往復した。閉店間際に駆け込んでプリントを受け取り、急いで大学に戻って映写機にかけると、フィルムの装填ミスで何も映っておらず脱力する、ということも何度かあった。フィルムは現像するまで何が写っているか確かめようがない、ブラックボックスだった。
作品が完成すると、他の学生とともに、自主上映団体「アニメーション80」の定期上映会で上映してもらった。その後「キノ・サーカス」での上映活動を経て、映像研究会「キノ・バラージュ」へ参加するようになる。映像作家の末岡一郎氏が主催する「キノ・バラージュ」は、月に1回開催される、誰でも自由に参加可能な完全に自主的な勉強会だった。テーマは、映画理論から劇映画、実験映像、アニメーションまで多種多様で、参加者も映像作家、美術家、批評家、映画愛好家、学生など、毎回多彩な顔ぶれだった。作家研究では時に作家本人を招いて自作を語ることもあり、大学の講義だけでは得られない野心的で実践的な学びの場がそこにはあった。
大学卒業後の1997年からイメージフォーラム付属研究所に2年間通い、8mmフィルムで課題や作品を制作した。大学では個人ではとても手が出せない高額な機材で制作していたが、8mm機材は中古とはいえ、個人でも一通り揃えられるものだった。ここで初めて、自宅で制作環境を整えられるようになる。《情景》(1998年)という作品では、撮影した8mmフィルムを写真フィルムと同じ要領で自家現像し、一部、現像所に出したフィルムを除いては、ほぼ全ての作業を自宅で完結することができた。この頃から、PCでノンリニア編集を始める人も増えてきて、《白いテーブルクロス》(2000年)では、DVカメラで撮影したテープを持って友人宅へ行って編集した。《お香》(2002年)を制作する頃には、自前のMacに動画編集ソフトを入れ、自宅で編集作業をするようになっていた。
1990年代の作品発表の場は、自主上映会か、映画祭や公募展への応募だった。映像やメディアアートでは、イメージフォーラム・フェスティバル、ぴあフィルムフェスティバル、ふくい国際青年メディア・アート・フェスティバル、現代美術の公募展では、パルコ・アーバナート、キリンコンテンポラリー・アワード、フィリップモリス・アートアワードに学生や若い作家が応募していた。特に公募展は若手芸術家の登竜門として、受賞者は大きく注目された。
1993年に当時学生の長島有里枝が家族のヌード写真でアーバナートのパルコ賞を受賞すると、蜷川実花、HIROMIXとともに、所謂「女の子写真」がムーブメントとなる。同時期に、多摩美術大学上野毛校を中心に、和田淳子、小口詩子といった女性映像作家が注目され、若手女性監督特集などが組まれていた。若い女性で、セルフポートレートないしセルフヌードの作品であれば、その文脈に組み込まれてしまうような風潮があったが、自分自身はおろか人物さえ殆ど登場しない作品ばかりだった私はムーブメントの遥か彼方の傍流にいた。
2000年代に入ると、現代美術と映像領域の境界は益々曖昧となり、発表の場も自主上映や映像祭から美術館、ギャラリーと多様な様相を呈する反面、企業主催の大規模な公募展が次々と終了する。この頃から海外に発表の場を求めて、各国の実験映画祭やメディアアートフェスティバルに応募するようになっていった。
1990年代から2000年代にかけての映像をとりまく状況を、私個人の創作活動と重ね合わせつつ回顧してきた。私にとって表現することは、メディアを通して映像に内在する時間と空間を描き、見るということ、新しい世界の見え方を探究する、終わりのない作業でもある。テクノロジーの変遷は、表現の新たな領域へ寄与するものだが、同時にその急速な進歩によって、作品が恒久的に存在しえないことを意味する。その作品の時代背景とともにメディアの特性との関係を検証すること、再現性を考慮することは、映像メディアを扱う作家として今後、無自覚ではいられないだろうと思う。
^註 今野裕一編『WAVE 18号 特集 フォト新世紀』伊藤俊治編集協力、ペヨトル工房、1988年。
(かのう しほ/映像作家)
第21回中之島映像劇場
「美術館と映像 ビデオアートの上映と保存—」配布資料をウェブに再掲
発行:国立国際美術館
資料発行日:2021年9月18日
編集
田中晋平(国立国際美術館客員研究員)
武本彩子(同研究補佐員)
田口由夏(同インターン)
執筆
島 敦彦
永田 修
稲垣 貴士
篠原 康雄
佐々木 成明
藤原 理子
前田 真二郎
狩野 志歩