国立国際美術館

HOMEコレクション&リサーチ中之島映像劇場アーカイブ第24回中之島映像劇場 「ケアする映画をたどる」

第24回中之島映像劇場
「ケアする映画をたどる」

2023年3月18日(土)・19日(日)

主催:国立国際美術館、国立映画アーカイブ
協賛:ダイキン工業現代美術振興財団
国立国際美術館地下1階講堂 参加無料・各プログラム入れ替え制(全席自由、先着100 名)

2023年3月18日(土)
13:00- Aプログラム ※
15:30- Bプログラム
17:30- Cプログラム

2023年3月19日(日)
10:30- Dプログラム ※
13:30- Eプログラム
15:50- Fプログラム

※冒頭に担当者による解説を行います。

 第24回中之島映像劇場では、「ケア」という主題から戦後日本のドキュメンタリー映画に流れる水脈に光をあてます。“care”( ケア)は、健康に対する配慮やそのための手助けといった行動を指しますが、看護や介護、福祉、保育の現場のみならず、生存に関与するあらゆる空間で実践されているものです。地域や社会のなかで孤立し、苦しみを抱えるケアの受け手と与える者との繋がりが、既存の人間関係に縛られない、新たな共同性を創発することさえあります。個人の判断と責任が強く求められる現代の社会状況で、生の営みがいかに多様なアクターとの連関のなかで支えられているかを、ケアの思考は喚起します。
 ケアの概念は、近年のアートおよび映像表現の世界でも関心を集めていますが、過去の記録映画の取り組みをたどる導きの糸にもなるはずです。福祉映画の巨匠・柳澤壽男が「撮りながら考え、考えながら撮る」と述べたように、優れたドキュメンタリーには、制作過程で試行錯誤しながら、「ケアとは何か」を問い直してきた痕跡が認められます。それは医師が患者に行う治療行為が時に直線的であるのに対し、ケアが他者との応答を繰り返し、失敗も挟みながら調整を進める過程とも重なるものです。単なる介護や福祉の場の記録ではなく、映画がどのようにケアの空間に寄り添い、容易に答えの出ない問いと向かい合ってきたか、上映を通して考える機会になることを願っています。
 今回の特集上映のために作成した本配布資料では、上映される「ケアする映画」について、さらに思索を深める機会を得るため、下記の方々に寄稿をお願いいたしました。佐藤真とも親交のあった、映画批評家で京都芸術大学教授の北小路隆志氏には、佐藤が構成・編集を担当した《おてんとうさまがほしい》の分析を通し、現代映画の諸問題にアプローチする論考をご執筆いただきました。また東京の映画美学校ドキュメンタリー・コースで佐藤に師事した、映画《チーズとうじ虫》の監督である加藤治代氏からは、佐藤による私家版の作品《保育園の日曜日》をめぐるエッセイをお寄せいただきました。柳澤壽男の福祉五部作をめぐって卓抜な論文を発表されている深田耕一郎氏からは、柳澤の監督した《夜明け前の子どもたち》の解題を書き下ろしていただいております。そして、《息の跡》(2016年)、《空に聞く》(2018 年)などのドキュメンタリーを発表されてきた気鋭の映像作家の小森はるか氏にも、《そっちやない、こっちや―コミュニティ・ケアへの道―》における柳澤監督の「関わり方を固定しない映画製作」の核心に迫るテキストを寄せていただきました。精神科病院相談員の吉田晶子氏には、《養護学校はあかんねん! ‘79.1.26–31 文部省糾弾連続闘争より》が記録した闘争の示す、全ての人間が共に生きる社会の創造という仕事を見据え、考察を広げていただいています。本上映会企画者の国立国際美術館客員研究員の田中晋平も、《痴呆性老人の世界》と時枝俊江による保育映画を介して、「ケアする映画」の可能性を探る論考を執筆しました。
 本配布資料が、ケアの視点から映画史を見つめ直す作業に寄与すること、さらに未来に続いていくケアの実践に、映像メディアがいかに参与しうるかを考え抜くために、活用されることを願っております。

Aプログラム

  • 《痴呆性老人の世界》(16mm/1986年/84分/国立映画アーカイブ蔵)
    製作会社:岩波映画製作所 製作:河上裕久・宅間由美子 演出:羽田澄子 撮影:西尾清 照明:藤来義門・久保賀作 録音:久保田幸雄・滝澤修 演出助手:堀山博子・井出洋子 撮影助手:高貴準三 ナレーター:斎藤季夫 選曲:戸高良行

〇作品タイトルは、オリジナルを尊重して、本配布資料内でそのまま記載しています。
高齢化社会に突入していたバブル経済下の日本で発表され、認知症とその介護を主題としたドキュメンタリーの先駆として大きな注目を浴びた。病院で暮らす老人たち、一人一人の姿にまなざしを向け、あるべきケアのかたちを問いかける。本作が起点となり、羽田澄子はその後、《安心して老いるために》(1990 年)など、「老い」をめぐる作品群を手掛けていく。

Bプログラム

  • 《おてんとうさまがほしい》(16mm/1994年/47分)
    プロデューサー:貞末麻哉子 撮影・照明:渡辺生  構成・編集:佐藤真 資料撮影:柳田義和 整音:滝澤修 音楽:秋元薫 ネガ編集:和田至亮 構成補:鈴木佳尚 特別協力:医療法人圭愛会日立梅ヶ丘病院

映画の世界で照明技師として働いてきた渡辺生が、アルツハイマー型認知症となった妻のトミ子を撮影し、彼女が日常に支障をきたしていく様子や入院した後の姿を記録した。《阿賀に生きる》(1992 年)の監督・佐藤真が、本作の構成・編集を担当し、あえて露出オーバーやピントがボケたイメージも活用することで、作品を完成に導く。

  • 《保育園の日曜日》(デジタル上映[原版:16mm]/1997年/20分)
    製作:豊川保育園おやじの会 監督:佐藤真 撮影:相内津・井上史浩・城野剛史・船橋淳・邱淑婷・劉文兵・吉田賢一 ピアノ伴奏:佐々木洋子

ドキュメンタリー映像作家の佐藤真が、娘の通う幼稚園で、保護者たちとともに撮影した私家版の作品。コマ撮りなどの自由な手法に溢れた映画で、大人と子どもが隔たりなく、楽しみながら制作した様子が画面に漲っている。

Cプログラム

  • 《子どもを見る目―ある保育者の実践記録から―》(16mm/1978年/45分/国立映画アーカイブ蔵)
    製作会社:岩波映画製作所 製作:田中勝志 企画演出:時枝俊江 撮影:八木義順 ナレーション:伊藤惣一

〇褪色したプリントでの上映です
東京のある幼稚園で、先生のサポートを受けた子どもたちが、自発的な創造活動を進めていく記録。箱積木を組み、大きな段ボールや道具を使い、子どもたちは次から次へと新たな遊びを創り出していく。思いついたアイデアが外れて失敗したり、泣いたりしながら、楽しく遊ぶために工夫を凝らす様子に、映画のカメラが密着する。

  • 《ともだち》(デジタル上映【原版:35mm】/1961年/59分)
    企画:日本私立幼稚園連合会 製作会社:岩波映画製作所 製作:小口禎三 構成・編集:時枝俊江・久保田義久 撮影:藤瀨季彦・栗田尚彦 照明:松橋仁之 録音:安田哲男 台詞:秋浜悟史 音楽:三木稔 語り手:臼井正明

不安いっぱいで幼稚園に入園した子どもたちが、運動や遊びを通じて、はじめての集団生活に慣れていき、夏休みに至るまでの期間を記録。せっかく出来た「ともだち」関係も、些細なことで拗れるが、状況が変われば繋がりが修復される。ゆっくりと成長を遂げる園児たちに寄り添う先生・藤村美津の姿も印象的。

Dプログラム

  • 《夜明け前の子どもたち》(16mm【原版:35mm】/1968年/116分/国立映画アーカイブ蔵)
    企画:財団法人大木会 心身障害者福祉問題綜合研究所 製作:国際短篇映画社 脚本:秋浜悟史 監督:柳澤壽男 助監督:梅田克己 撮影:瀬川順一 音響構成:大野松雄・小杉武久 音楽:三木稔 録音:片山幹男 照明:久米成男 編集:高橋春子・加納宗子 解説:植田譲

1963 年に開設された重症心身障害児施設の「びわこ学園」における、医療と教育を一体化させた活動の記録。河原で行われる石運びの共同作業など、子どもたち一人一人の障害を見つめ、療育の方法が模索されていく。柳澤壽男の福祉五部作の原点であり、その後に撮影の瀬川順一、脚本の秋浜悟史、音響の大野松雄たちも、それぞれに障害児と協働したドキュメンタリー映画や演劇活動に携わった。

Eプログラム

  • 《そっちやない、こっちや ―コミュニティ・ケアへの道―》(16mm/1982年/110分/国立映画アーカイブ蔵)
    企画:伊藤方丈 製作:記録映画「コミュニティー・ケアへの道」製作委員会 構成・監督:柳澤壽男 撮影:塩瀬申幸 録音:小林賢 スチール:小林茂 題字:沙羅千春 解説:伊藤惣一 作詞:森永都子 作曲:冬木透

愛知県知多市で暮らしている障害者たちの療育グループの二年間を追いかけたドキュメンタリー。市からの援助なしで、障害をもった人々が自らアイデアを出し、指導員や大工と協働しながら、作業所「ポパイの家」を完成させるに至る。個性的な障害者の姿を記録しながら、コミュニティ・ケア=地域福祉のありかたを問いかけていく。

Fプログラム

  • 《養護学校はあかんねん! ‘79.1.26–31 文部省糾弾連続闘争より》(16mm/50分/1979年/神戸映画資料館蔵)
    企画制作:市山隆次 構成:大石十三夫・山邨伸貴 編集・インタビュー:山邨伸貴 撮影:小田博・小林義正 録音:若月治 整音:久保田幸雄 タイトル題字:須田雅之

1979 年の養護学校義務化実施に反対するため、同年1 月に文部省前で抗議に集まった障害者たちの姿を記録。不如意な身体から発せられ、義務化の問題点を指摘する人々の声は、映画を観る者にも、「共生」を目指す教育について思考することを迫る。完成後の半年間のみで、全国各地の集会などの場で200 回を超える上映が行われたという。

ケアがはじまる——《痴呆性老人の世界》讃

田中 晋平

撮影のために訪れた熊本の病院で、数十人もの痴呆のお年よりに囲まれたときには言葉を失った。「人間が年をとると、こんなことになるのか……」。まるで谷に突き落とされたような絶望的な気持ちになり、とても映画をつくれる気分ではなかった[1]

 大手製薬会社から認知症の介護についての学術映画をつくりたいとの依頼が岩波映画製作所に入り、既に同社を退職していたが呼び出された羽田澄子は、はじめて認知症の老人たちの取材で病院を訪れた時の衝撃を、さまざまな場で語っている。その後、岩波映画の歴史に刻まれるヒット作となり、1985年度キネマ旬報ベストテン文化映画部門1位などを受ける《痴呆性老人の世界》の出発点は、この絶望にあった。さらに言えば、《安心して老いるために》(1990年)やビデオで撮影された北欧、オーストラリアの老人ケアシステムを取材したドキュメンタリー、《終りよければすべてよし》(2006年)など、終末期の生と向き合った後の羽田による一連のドキュメンタリーも含め、上記の映画を作れるとは到底思い至れない体験に遡れるのである。
 映像作家の戸惑いは、《痴呆性老人の世界》の画面にも痕跡を残している。たとえば映画の前半、大きな風呂敷包みを背負った老女が、子どもや孫たちのいる自宅に帰るのだと言い、徘徊する場面。しばらく建物から出られないままにすると、閉じ込められた!と騒ぐこともあり、時に看護師が付き添い、病院の外へ出歩くことが受け入れられている。細い道や荒地を寄るべなく進む二人の姿を、映画のカメラもまた不用意に距離を詰めることなく追う。しばらくあちこちを歩いた後、見つからないので家の人に迎えに来てもらおう、と老女に伝え、一旦その提案に納得してもらって病院に戻る。だが、看護師が家族に電話をかけ一段落かと思いきや、帰りますとまた老女が立ち上がり、廊下を歩きはじめる。この不確実な状況で、映画のカメラも撮るべきものを見失わぬよう、所在なく揺れ続ける。
 認知症の高齢者を前に当惑し、言葉を失っていたのは、羽田たちだけではない。それは戦後に平均寿命が格段に延び、既に1970年代から高齢化社会に突入していた日本人が、バブル景気に浮かれる水面下で目撃していた光景だった。現在のような脳神経画像技術の発展もなく、抗認知症薬の認可や介護保険制度の導入よりもはるか以前に発表された《痴呆性老人の世界》が、当時大きな反響を得た要因を、羽田も「みんな他人事じゃないと思って見てるでしょ」[2]と述べている。こうした状況下で制作された本作は、認知症とその介護のあるべき姿とは何か、専門家の指導を得ながらも、明確な答えが与えられないまま、撮影をスタートせざるをえなかったはずである(なお本作の公開と同年、認知症および尊厳死の問題を取り上げた、吉田喜重監督の《人間の約束》が発表されている)。しかし、その不確実な、容易に答えの与えられない状況からこそ、「ケアする映画」の実践が生まれるのだと思われる。

 では改めて、「ケア」とはどのような営みなのか。本上映会の案内にも明示したとおり、それは看護や介護、福祉、保育の現場のみならず、生存に関与するあらゆる空間で実践されているものだが、ここでは反転させて「ケア」がどのような営みではない・・のかを併せて考えよう。医療人類学者のアネマリー・モルは、個人が健康のためにより良い選択を行うのを推奨する「選択のロジック」と、一人一人の生を、他者やモノとの関係のなかで捉え、試行錯誤を続けながら状況を改善していく「ケアのロジック」を対照化する[3]。「選択のロジック」では、一方的に医療を患者が受けるのではなく、与えられた情報から、どのような治療や介護サービスなどを受けるか、合理的判断を行う主体として、患者を位置付ける。それは人々が社会の中で自律した個人として健康に配慮し、治療法や薬剤、治療機器などを選ぶ消費者として振る舞うことを推奨する。だが、一見リベラルにみえるこのロジックは、容易に想像できるように、与えられる説明が十分かどうか、管理された範囲でしか患者に選択肢が設定されないのではないか、といった問題を避け得ない(にもかかわらず選択の結果は自己責任に帰される)。そもそも患者となったり、ケアを受けねばならない状況下で、冷静な判断や意思表明は困難である。選択の主体になりたくてもなれない存在、マイノリティや子ども、老人らの個別の生から発せられる声を、置き去りにする危うさも「選択のロジック」に付きまとうだろう。対して「ケアのロジック」では、患者が選択したサービスのみを提供するのではなく、ケアを受ける一人一人の状態をより良いものに保つためにできることを考え、実践していく。ある個人の身体の状態を改善するために何が必要か、答えの与えられていない不確実な状況でも、ケアを与える者と与えられる者が共に問い、調整を繰り返す。つまりケアは、匿名的で、一律に提供されるサービスであってはならず、目の前の他者の生と関わり合う、オープンエンドな営みと言える。
 「ケアのロジック」は、市場原理に覆われたわれわれの社会のなかでも、そこかしこに息衝いている。《痴呆性老人の世界》の画面に現れる老人と病院内での介護の様子からもその具体例を挙げられる。先程の徘徊する老女に付き添っていた看護師のように、老人を強制的に病院に連れ戻すのではなく、「説得」はできぬまでも、家族に来てもらおうという提案に「納得」してもらうという対応も、その一つだろう。病院内で週二回実施されるお風呂の時間に重なるナレーションでも、当初は短く管理されたスケジュールで入浴が行われていたため不評だったが、それぞれの老人のペースに合わせるかたちに変更されたというエピソードが語られる。一日たっぷり時間を設け、寝たきりでも気持ちよく入浴できるよう介助を工夫したことで、老人たちの楽しみに変わった(断りたい事情があれば入浴しなくてもよい)。そして、「残る能力を生かす」というスローガンのもと、食事などの日常的な行為は、可能な限り自身で行なうことが推奨されるし、院内の細々とした作業にも手を貸してもらう。生活の全てをサポートするわけではなく、それぞれの老人に何ができるのか、したいのか、そのために好ましいモノの配置や環境を築こうとする細やかなまなざしがあり、現場で調整が繰り返されている様子が示される。認知症の老人たちは、選択の主体として振る舞うことが難しいにせよ、単に受動的なわけでは全くなく、ケアの場ではその能動性や感情に配慮することも求められるのだ。
 他にも《痴呆性老人の世界》が捉えているケアの事例は挙げられるが、病院を訪れた羽田たち映画クルーもまた、認知症の人々の世界に分け入りながら、老人たちの生活を脅かさないため、さまざまな配慮を行っていた。まず、病院で暮らす人々に違和感をもたらさないよう、羽田たちはみな、白い看護衣を着て撮影に臨んだ(映像にも映り込んでいる)。病院内での老人たちの会話を、不要な介入を行わずに聞き取るため、録音部の滝澤修が特製の長いハンドグリップをつくり、遠くの場所でも音を録る方法が編み出された[4]。さらにフィルムで老人たちの日常の細部を撮影するため、建物内の天井に特設の枠を付け、ライトを設置した[5]。もちろん、羽田たちが看護師のように、老人たちのケアに直接参与していたわけではない。だが、創意工夫を凝らした撮影・録音方法を編み出し、モノの位置を調整する羽田たちの活動にも、老人たちの生活のかたちに寄り沿う映画制作の方法が模索されたという意味で、「ケアのロジック」の作動を見出せるのだ。
 声や光の調整作業は、家族と離れて暮らす高齢者たちの姿を、気の毒で悲惨な状態として、あるいはただ「弱者」として表象するのではなく、いわばその存在の輝きに迫る試みでもあった。羽田は、天井に照明をセットした企図について、次のようにも述べている。

それから、いまは高感度のフィルムが出てますから、本当じゃそんなことをしないでもうつるんです。だけど、あそこの場で、へたをすれば非常に悲惨な画になっちゃうわけですね。だから、私は、とにかく映像は美しくなければいけないとキャメラマンにものすごく言ったわけです。映像が美しいというのは、人間の肌の色をきれいにだしてもらいたかったということですね[6]

このような美しい映像とクリアな音声に映画が占められることで、病院で現実に繰り広げられる「もっとどろどろしたところ、すさまじいところ」が除去されること、それによって「記録映画としてつまらない」という評価に繋がりかねないことにも、羽田は自覚的だった[7]。山田宏一が指摘したように、「たてまえとしての客観性とか、男性のシーンを五十パーセント、女性のシーンを五十パーセントなどという、バランスとか平等をいっさい無視したリアリズム」[8]を貫いて、《痴呆性老人の世界》は、カメラの前の老人たちを見つめる。そうすることで、およそ「認知症」という言葉で一括りにするのが不当だと確信を得られるほど、多彩な、老人の姿や身振りを掬い取ることに成功した。膝を立てた状態で座ったままゆっくりと廊下を無言で進む人、自分をまだ18歳の少女だと笑顔で告げる老人、ずっと食事をもらっていないのだと主張する人たち。彼女たちは、「群れとしての老年ではない、個としての老年」であり、ここでは「老いについての、安易な一括りの意味をはねつける映像の流れ」[9]が提示されている。時代的制約も認められるにせよ、病院で働く介護する人々も、そして、映画自体も、その個別の存在をいかにケアするかに注力しているのが伝わる。その個へのまなざしこそが、《痴呆性老人の世界》という作品に、現在もなお再見すべき価値を付与している。
 個としての高齢者と向き合う営みとは、認知症の老人たちが生きているフィクションの世界や、現在と同期しないそのバラバラの時間に寄り添うことでもある。夫や家族、自分の名前さえも思い出せなくなった人が、百人一首をスラスラと暗誦してしまう瞬間を、映画は息の長い二つのショットで捉えてみせる。正月前に病院で餅つきをはじめると、かつての習慣を呼び覚まされたのか見事な合いの手を入れ、大活躍してしまう女性もいる。日々の記憶が解けていくなか、それぞれの人生で身体に染みわたった記憶が、行動や声を通して表現される。このような老人たちの身体的記憶のイメージは、老い衰えていくという、誰もがたどる生の直線的なプロセスから逸脱した思考にわれわれを誘う。もちろん、認知症自体は、その進行を緩やかにすることは可能でも、完全に止めることはできない不可逆的なものである。しかし、上記の老女たちの身振りは、記憶が摩滅していく状態でも、ある過去の時間が保存され、湧水のように再生される意味を、観る者に語りかけずにいない。こうした断片的記憶を纏い、他のさまざまな出来事を忘れていく状態を、気の毒で、悲惨な状態などと不用意に捉えることの貧しさを、《痴呆性老人の世界》は伝えようとする。

 映画を観るわれわれも、その羽田たちの思考に次第に共振していくだろう。さらに議論の射程を広げれば、認知症予防など早期の対策・介入を行い、健康を保ち、サクセスフル・エイジングを手にすること、そのような人生の終末期を迎えるのが幸福で、そこに向かうための「選択のロジック」の主体であるべきとする、現代の医療や市場原理のパラダイムを揺るがせるイメージを、《痴呆性老人の世界》は提示しているのではないか。羽田自身が、最初の病院で受けた衝撃のあと、次のように発想を改めることで撮影に臨めるようになったことを明かしている点は重要である。

日が経つと少しずつ最初の衝撃から抜け出していった。やがて、「痴呆になれば、本人は幸福なのではないか」とも思うようになったのである。人生は大部分の人にとって、苦しみや悲しみの印象が強いものではなかろうか。それを忘れ果てることができるのは悪くないのではないか[10]

ノンフィクション・ライターの野村進も、認知症がもたらす「救い」[11]の可能性に言及している。戦争のトラウマ的記憶、訪れる死への恐怖および苦痛から解放された事例を挙げ、その否定的イメージを覆そうとする議論は、実は少なくない。しかし、認知症に「幸福」や「救い」という概念を重ねることに抵抗感をもつ向きも当然ありうるし、早急な結論で思考停止することは避けよう。羽田自身も上記の引用のあとに、「ほんとうは、こんなに単純なことではなかったのだが、それでも、この時は『痴呆になるのも悪くない』と思ったことで、ようやく撮影にたちむかえる気持になったのである」[12]と明記している。おそらく認知症の「幸福」というイメージもまた単純化を免れないことに、撮影を通して羽田は思い至っただろうし、だからこそ、高齢者の生とそのケアのあるべき姿をさらに取材するため、《安心して老いるために》などのその後の仕事に突き進んだと思われる。ここには安易な答えに縋らず、ケアの現実と課題に向き合い続けた、映像作家の倫理が認められねばなるまい[13]
 にもかかわらず、「絶望的な気持ち」におかれた羽田を映画に向かわせたその認識に注目したのは、認知症の老人たちを、社会的弱者として捉えて済ませるような考えから距離をとる転換、その一歩が刻まれているからである。「幸福」や「救い」という表現が正しいかどうかではなく、介護される老人たちを、気の毒な、弱者として見据えるのを一旦退けることで、新たな思考の地平が開ける。それが「ケアする映画」の原動力となったのだ。「もっとどろどろしたところ、すさまじいところ」を撮るべきとするスキャンダラスなドキュメンタリーとは真逆に、羽田たちはその老人たちの輝きを探し求め、可視化するため、撮影に必要な調整作業を繰り返したはずだ。
 当初の撮影期間の終盤と思われる場面、カメラの前で一つのイメージが立ち上がる。お正月に自宅に帰ってきた老人たちが、次々と病院に戻ってくる。家族と過ごせて元気を取り戻した老人もいるが、逆に症状が悪化した人もいた。お墓参りに行った先で自分が捨てられるのだと妄想に憑かれた老人もいたことをナレーションが告げる。自宅で家族に囲まれている時は、自分の名前さえ思い出せなかった老人が、病院に戻ると、はっきりと名乗れる姿も記録されている。こうした一人一人のエピソードを紹介したのちに現れるショットが、病院に帰ったばかりのある老人の手を、別の老人がそっと握り、ゆっくりと広間を横切って、座敷にある炬燵まで導くというイメージである。前半で病院の外を彷徨っていた老人と看護師の姿とは対照的な、その映像の二人の美しさは、言葉に尽くせない。観る者の心が動かされるのは、家族というユニットから切り離された認知症の老人たちが、このショットでは、一方的なケアの受け手であるどころか、時にケアを与え合い、相互に寄り添い合う存在でもあることを、明示しているからだろう。絶望から出発した羽田たちの試みは、家族でなく、病院のなかでただ互いに無関心に並んでいるだけでもない、このささやかなケアの共同性に辿り着く。
 《痴呆性老人の世界》のエピローグでは、二年後に再び訪れた病院の様子が挿入される。改築された病院、陽光に照らされた庭で唄う老人たちを映した後、この期間で退所して自宅に戻った人、転院した人、車椅子の生活になった人、喋らなくなった人、そして、亡くなった人たちの存在を告げる。最後に映るのは、病院の浴場の光景である。老人たちが楽しみにしていたお風呂の環境も様変わりしていた。新たに導入された寝たきりの人が入浴するための設備は、利用者から「怖い」という不評の声が出たらしい。だから放置されたその機械の横で、いまだ看護師たちが、動けない老人たちの入浴をサポートしている。こうしてケアは続く。果ても終わりもないのだ。

  1. ^羽田澄子『映画と私』晶文社、2002年、105頁。
  2. ^羽田澄子インタビュー「羽田澄子〈監督〉と語る―記録映画」山田宏一『映画とは何か―山田宏一映画インタビュー集』草思社、1988年、493頁。
  3. ^アネマリー・モル『ケアのロジック―選択は患者のためになるか (叢書 人類学の転回)』田口陽子・浜田明範訳、水声社、2020年。
  4. ^羽田澄子インタビュー「撮影対象と信頼関係をつくる」金子遊『ドキュメンタリー映画術』論創社、2017年、32-33頁。
  5. ^同上、33頁。
  6. ^「羽田澄子〈監督〉と語る」前掲書、501頁。
  7. ^同上、507-508頁。もちろん映画に登場した老人の家族に対する配慮もある。撮影はできたが、「親族の方がどうしても映画として見せるのはいやだとおっしゃったために、本当に惜しいけど、はずしたおばあさんの話」(同上)もあったとされる。
  8. ^同上、510頁。この羽田の「リアリズム」は「註13」で触れる羽田のドキュメンタリーの方法、あるいはその「倫理」と重なるアプローチとして、厳密に把握されねばならない。
  9. ^天野正子『〈老いがい〉の時代―日本映画に読む』岩波新書、131頁。
  10. ^羽田澄子「映画『痴呆性老人の世界』をつくって」『老いの発見2 老いのパラダイム』岩波書店、1986年、66頁。
  11. ^野村進『解放老人―認知症の豊かな体験世界』講談社、2015年、131頁。
  12. ^羽田「映画『痴呆性老人の世界』をつくって」前掲書、67頁。
  13. ^あえて「倫理」と書いたのは、かつて土本典昭が次のように評した羽田のドキュメンタリーの方法を強調したかったためである。「その映画の根本に現実の一線一角をゆるがせにしないドキュメンタリーの方法がある。それを〝私〟の眼でデフォルメすることへの厳しい抑制が働いている。自分の感覚への甘えと倨傲きょごうが微塵も働いていない」(土本典昭『不敗のドキュメンタリー―水俣を撮りつづけて』岩波現代文庫、2019年、215頁)。《薄墨の桜》(1977年)や《早池峰の賦》(1982年)などにも明瞭に認められるこの羽田の方法については、別稿でさらに論じたい。

たなか しんぺい/国立国際美術館客員研究員

切なくも心温まる「恋愛映画」——《おてんとうさまがほしい》における身体と現代映画の新たな地平をめぐって

北小路 隆志

 映画史に残る、とか、偉大である、といった、過剰な印象を伴いがちな賛辞をまるで拒絶するかのように、そしてまた社会に何かを声高に訴える、といった分かりやすい自己主張(?)からも自ら遠ざかり、慎ましさやささやかさ、あるいは気恥ずかしさといったものをその身に纏うがゆえに美しく、ともすれば消え入りそうな、その微かな存在の佇まいそれ自体に対し、誰に向けてとも明確にいえない類いの感謝の念を捧げたくなる……。そんな映画、そして、だからこそ、上映の機会があるたびに何度でも見直したくなる映画というものが確実に存在し、僕にとって《おてんとうさまがほしい》(1994年)はそうした大切な映画の一本である。本稿では、その素晴らしさや意義について、できれば過剰な物言いに陥らないよう気を配りながら僕なりに記していくつもりだが、その前にまず確認しておくべきことがある。それは、慎ましさや気恥ずかしさといった、この映画から受ける印象におそらく関わるもので、《おてんとうさまがほしい》は誰の「作品」なのか、という作家性を巡る問いである。
 もとよりそれは映画作品全般につきまとう問いである。集団制作を基本とする映画は、たとえば、小説や絵画と違って「作者」が誰であるかが判然としない。かつてスターシステムが強固であった時代には、人はお気に入りのスターを目当てに映画館に足を運び、そのスターの映画として「作品」を享受しただろう。あるいは、優れたプロデューサーの仕事を辿ると、その人物ならではの署名を何本もの映画に共通して見出すことも難しくない。もっとも、ここでそうした終わりのない問いに拘泥するつもりはなく、乱暴にいえば、1950年代にフランスの雑誌『カイエ・デュ・シネマ』周辺に集った批評家らが標榜した「作家主義」などを契機に、映画監督こそが作品に独自性をもたらす「作家」であると見なすことが、少なくとも映画理論や批評の領域で一般化されたとしておく。たとえば《羅生門》(1950年)は、三船敏郎や京マチ子といったスターや、後に名カメラマンとして世界に認知される宮川一夫、あるいは製作した大映京都撮影所の作品である以上に――もちろん、そうした観点から映画を論じる可能性も担保したうえで――、黒澤明の名のもとに語られるべき「作品」として認知され、同作への国際的な評価をきっかけに、「映画監督(作家)・黒澤明」の名が映画史に残り、無数の研究や称賛の対象になり続けてきた。
 監督個人の作品として語ることのもろもろの限界を承知のうえで、それでも映画を監督の「作品」であるとひとまず仮定すること……。そうした慣行があると認めるとして、しかし困ったことに(?)、《おてんとうさまがほしい》には「監督」のクレジットがないのである。もちろん、この作品が存在するためには、まず誰よりも渡辺生という、長らく照明技師として映画界で働いてきた人物がいなければならなかったし、彼の妻のトミ子さんがアルツハイマー型認知症を発症した事実が映画制作のきっかけとなった(渡辺生のクレジット上の役割は「製作・照明・撮影」である)。だから、この作品が存在すること、それを見るたびに思わず捧げたくなる感謝の対象が、まず誰よりも、この仲睦まじかっただろうことが映画からも伝わる夫婦であることは疑いなく、《おてんとうさまがほしい》は渡辺生と坂本トミ子というカップルの「作品」であるといって差し支えない。だが、本作で僕らが見聞きする映像と音の連なりや積み重なりは、「構成・編集」とクレジットされた佐藤真の手で最終的に具体化されたものであるはずだ。
 日本のドキュメンタリー映画の伝統のなかで、少なくともある時期までは、「構成・編集」が劇映画でいう「監督」に近い立場であったことが知られている。たとえば、日本のドキュメンタリー映画界で最初の「巨匠」である亀井文夫は、彼の監督作に数えられる作品であっても「編集」や「演出」とクレジットされることが多く、彼自身、自分の主だった仕事を「構成・編集」と捉えていた。確かにカメラマンが現場でいかなる映像を撮り集めるかも重要だが、結局、それは「素材」に過ぎず、それらをいかに「構成・編集」するかが「作品」の質や意義を決定づけると考えられていた。そして逆に、そうした「慣行」に業を煮やした若かりし頃の小川紳介らドキュメンタリー映画の「新しい波」の担い手たちが、現場に足を運びさえしない編集者による改ざんめいた介入に抵抗するかのような映像を撮る決意を固めたのだとされる。もちろん、小川たちにとっても「編集」が重要であることに変わりはなく、単純に「編集中心主義」から「撮影中心主義」への移行が目指されたわけではない。ただ、一方による他方への支配といった従属関係とは別のそれへと、「編集」と「撮影」の関係性を変換させることが、ドキュメンタリー映画の革新にとって不可欠なプロセスであった。
 《おてんとうさまがほしい》に参加した時期の佐藤真は、小川紳介らの仕事を深くリスペクトしながらも、ドキュメンタリー映画の「その後」を果敢に切り拓こうとしていた若き映画作家であった。《おてんとうさまがほしい》を佐藤真の「作品」とすべきだ、などと主張したいわけではない。繰り返すが、彼は一方で「編集中心主義」による既存のドキュメンタリーへの小川らの戦いを継承する作家であって、「構成・編集」がすなわち「監督」であるとは考えない。だが他方で、彼が残した膨大なドキュメンタリー論で「編集」の重要性がしばしば語られているのも事実である。たとえば、《阿賀の記憶》(2004年)の撮影をほぼ終えたであろう段階で書かれた彼の文章は、いま着手している作品がどのような完成形態になるか見当もつかないと告白したうえで、次のように締め括られている。「私にとって、映画とは、いつも編集台の上で突如、天啓のように立ち現れてくるものなのである」(佐藤真『映画が始まるところ』凱風社、2002年)。

 注目すべきは、それが「誰の」作品であるかに関わりなく、映画が「天啓のように立ち現れてくる」、その場が「編集台」であるということである。そして、渡辺生が主に妻を被写体に撮った16ミリフィルムと編集台で対峙するなかで、佐藤が「天啓」の立ち現れを目の当たりにしたことは確実であり、その「天啓」が《おてんとうさまがほしい》という一本のかけがえのない「作品」に結実した。《おてんとうさまがほしい》の素晴らしさは、それが誰の「作品」であるかといった「作家性」への拘泥をむしろ無頓着に遠ざけるかのような、その慎ましさや匿名性において宿るのだ。しかし、それでもここまでのやや長い「前置き」が必要だったのは、《おてんとうさまがほしい》が、その後の佐藤真の「作家」としての仕事に深い影響を及ぼし、ある意味で、それを方向づける重要な契機になったように僕には思えるからだ。以下の文章でその点に言及するであろうことへのあらかじめの「言い訳」でもあるかもしれない。本作は佐藤真の「(監督)作品」ではなく、もちろん彼のフィルモグラフィでもそう位置づけられている。しかし、本稿で取り組みたいのは、《おてんとうさまがほしい》に佐藤の「作家性」の徴を探すことではなく、むしろ逆に、この作品での仕事、「編集台」において訪れた「天啓」が、その後の彼の仕事(作家性)に与えた影響の在り方を想像し、辿り直す作業なのである。

 映画は、豊かな木々の緑に囲まれた道を走る小型バスを対象とした一連のショットで幕を開ける。通過するバスをパンで追うローポジションのショットから、その後ろ姿を車窓越しに見やる前進移動、やや高めの位置から俯瞰気味に捉える固定のロングショットと続き、最終的に山間にある病院に通じる坂道を上るバスをカメラが迎え、本作で主要なロケ場所となる日立梅ヶ丘病院に到着する。それまで聞こえていた手拍子を交えた大勢の人たちによる歌声に代わり、いかにも夏の盛りを思わせるセミの鳴き声が耳に届き始める。白い病院の建物の全景ショット、病院の見取り図の看板、ひまわりをはじめ、病院の周囲に咲き誇っているのだろう各種の花々を映す短いショットを経て、まだ入院前の姿であろう、帽子をかぶり、ワンピースを着た坂本トミ子さんがはじめて画面に現れる。傍らで撮影者でもある夫(渡辺生)が「歌ってください」と声をかけると、彼女は素直に歌い出す。僕には曲名はわからないが、身振りを交えて朗々と歌う彼女の手が膝を叩いてリズムを取り出すと、それまで固定だったカメラがその手をズームアップで映す。やがて、画面は素朴なタッチによる太陽の絵に切り換わり、「おてんとうさまがほしい」とタイトルが浮かぶ……。僕らを「不思議の国」としての映画のなかへと招き入れる、素晴らしく簡潔で的を射た導入部である(冒頭のバスは佐藤真のフィルモグラフィでいえば《阿賀の記憶》を連想させる)。
 その後も映画に頻出することになる病院(日立梅ヶ丘病院老人性痴呆疾患センター)内の廊下をガラス越しに縦の構図で映すショット。遠くにトミ子さんの後ろ姿が見え、撮影者である夫の姿もガラスに反映される。やはりガラス越しに妻と女性看護師、他の患者のやり取りを映す寄りの画面に切り換わると、次のような渡辺生のヴォイスオーバー(以下、VOと略)が被さる。「本当に僕だって最初こんなの撮って悪いなあ、と思ったんだけれども。やっぱり、毎日病院に行ってて退屈でね(笑)。トミちゃんの手を引っ張って、歩いてばっかりだと退屈だし。下手ながらも何か撮りたいなあ、という気がしましてね」と病院での撮影の動機が語られる。カメラマンではないが、長年映画界で働いていた渡辺が「下手」を自称するのは、ある種の謙遜だろうし、そうした彼の態度が本作から受ける「慎ましさ」や「気恥ずかしさ」の印象の源でもあるだろう。ただ、これも《阿賀に生きる》(1992年)の作家である佐藤真らしい選択だが、この映画では実際に露出オーバーで白飛びしたり、ピントがボケたりする映像など、通常でいえば失敗として破棄されてしまいそうな「下手」な素材が積極的に活用されるのだ。
 たとえば、トミ子さんがアルツハイマーを発症する模様を振り返る渡辺のVOは、ピンボケのいくつかの風景ショットを背景に流れる。世界がもはや明快に輪郭づけられることなく崩れ落ちようとしている、その予兆とともに……。あるいは、トミ子さんの入院生活が続くなか、患者たちが屋外でボール遊びなどに興じる場面も美しい。陽光を浴び、病院で幽閉状態に置かれた人々がいったん脱出を果たすかのような解放感のある場面だが、そこでの映像もほぼピンボケ状態であり、しかしだからこそ、天国の光景のように見える。そしてそこで僕らが耳にするのは、その映像と直接的に関係があるかどうかも不明な、謎めいた、そしてどこかユーモラスな看護師らしき女性の画面外からの声である。彼女は「~さん」と患者の名前を何度も口にし、「おしっこ?」と声をかける。こうした映像と音の乖離は、この映画の「構成・編集」に横溢する魅惑の源である。主に16ミリで撮影された本作は一種のサイレント映画であり、だからこそ、映像に被さる音の実験、両者の関係性が刺激的な効果をもたらすのだ(「整音」として滝澤修の名前がクレジットされている)。あるいは、高熱を出して寝たきりになったトミ子さんがリハビリのために転院を余儀なくされるシークエンス。車椅子に乗ったまま自動車で移動する彼女の様子を追いかけるなか、これもややピンボケ気味の屋外の遠景ショットがほんの短いあいだだけ挿入される。転院先の病院の庭なのか、芝生が広がる、そのもっと先に長い物干し竿とそこにかかる洗濯物がおぼろげに浮かび上がる。そのショットの前に彼女が車椅子生活になることを告げる字幕が置かれ、また、すぐそのあとで憔悴し切った本人が画面に現れるだけに、現実の厳しさを良い意味で緩和してくれる光景である。
 このドキュメンタリー映画では、いくつもの手法が重層的に活用される。構成に当たってあらためて敢行されたのであろう渡辺への聞き取りは、いわゆるインタビュー映像として画面に現れることなく、これまで記してきたようなオフのVOで処理され、字幕も効果的に挿入される。たとえば、導入から間もなくして、トミ子と渡辺それぞれの人生の来歴が簡単に紹介される際には、まずインタータイトルで「坂本トミ子/大正十四年/茨城県日立市/に生まれる」と示され、彼女の少女時代から若かりし頃の何枚かの写真が画面に現れる。一目でモダンとの印象を受ける服装で、自信溢れる快活な笑顔。そこに重なる夫の言葉、「うちのトミちゃんは、まあ、活発な女性だったんですよね。その頃にしてみれば」も十分頷ける。「戦後/語学力を生かし/通訳として活躍」と字幕で説明され、外国人とともに映る写真も確認できる。そして、「渡辺生/大正六年/新潟県小千谷市/に生まれる」と紹介される夫のほうはといえば、「映画界に/憧れ/二十歳で上京/照明技師となる」の字幕も交え、いかにも「カツドウヤ」といった風情のハンチング帽姿の写真を何枚か目にすることができる。そして2人が昭和36(1961)年に結婚した事実が字幕で告げられた後にツーショトのカラー写真。トミ子さんの服の赤さが鮮烈な印象を残す。
 VO、字幕、音楽に加え、写真などの資料が効果的に活用される「構成・編集」は、佐藤真の2000年代以降の作品、とりわけ《SELF AND OTHERS》(2000年)でのそれを予告するかのようで興味深い。特に前半部分、症状の悪化が渡辺のVOで説明される際に現れるトミ子さんの手帳のシークエンスが素晴らしい。「LADY`S 1989」と書かれたやはり赤い手帳がまず画面に映し出され、1989年の2月13日からの1週間の頁がカメラに収められる。13日には「あめがふっているが、あたたかい」と書かれ、16日には「今日もよいてんきであるが、グランドはぬれている」とある。夫の言葉による説明だけでは見えてこない何かが、その不安定な筆跡によってはっきりと可視化される。トミ子さんの文字はほぼ平仮名だけで、その文字の連なりや内容から、明らかに何かがおかしい、崩壊しつつある、との感触が僕らにもたらされるのだ(「資料撮影」として柳田義和の名がクレジットされている)。
 資料を交えてのドキュメンタリーの先鋭化に関連して、佐藤真の「構成・編集」がある種の冴えや遊び心も交えた「残酷さ」に達するのは、映画の終盤、それまで見たことのない「D棟」と書かれたパジャマを着て、寝ているのだろうか、下を見て、うなだれるかのようなトミ子さんを映すショットに続き、前述の来歴が紹介される際に使われたものとはまた別の、しかしそれらと同様に若くて溌溂とした彼女の何枚かの写真が不意に挿入されるシークエンスだろう。同じように下を向く姿勢である点で両者は緩やかな相似関係を結ぶが、写真での彼女は職場でデスクに向かい、タイプライターを打っている。そして、それらの写真のモンタージュのあとで、画面は再び「D棟」のパジャマ姿の憔悴し切った彼女に戻る。そこでの写真は彼女が夢のなかで思い起こす若き日の自分ということなのか。似た姿勢の同じ人物や類似した形態をモンタージュで繋げるという映画編集における基本的な原則は、このシークエンスにおいて鮮やかさや軽やかさの印象のみならず、苛酷な現実をも僕らに突きつける。彼女があの溌溂とした自分に戻ることはもはやありえないのだから……。

 佐藤真の仕事にあって《おてんとうさまがほしい》での「構成・編集」が占める位置について、あらためて確認しておこう。デビュー作である《阿賀に生きる》を発表し、高い評価を受けた佐藤は、この時期、次の作品が長く待たれる状態にあった。どのような経緯でこの仕事を佐藤が引き受けたのか、その事情を把握できているわけではないが、少なくとも映画を純粋に見る限り、この作品での仕事をひとつの契機に、佐藤は次回作の長編《まひるのほし》(1999年)、そして尺数として《おてんとうさまがほしい》に近い《SELF AND OTHERS》や《花子》(2001年)、そして《阿賀の記憶》といった一連の仕事に歩みを進めることができたのではないか、と僕は想像する。佐藤真の代表作とされることの多い《阿賀に生きる》や《エドワード・サイード OUT OF PLACE》(2005年)といった堂々たる長編以上に、尺として1時間弱のそれら3本こそ、ある意味では、より佐藤らしい軽やかさや遊び心を帯びた映画であるように僕には思え、《おてんとうさまがほしい》はその端緒に位置する作品なのだ。
 そして、さらに重要なのは、ある種の「身体」やそれに関わる「運動」という主題が、《まひるのほし》へと至る過程にあった佐藤真のなかで自作の主題として焦点化されたように思われる、という点である。なるほど、《阿賀に生きる》にもそれはすでにあった。同作における新潟水俣病の患者たちは、土本典昭のドキュメンタリー映画に登場する水俣病患者のように明らかな身体的スティグマを刻まれるわけではなかった。ただその細部に、たとえば、少し曲がった手の指に、火傷をしても気づかない、その足に、ある身体的な固有性を帯びるのだった。そして、いわゆる知的障害者のアーティストたちを被写体とする《まひるのほし》でその主題が明白になるのであり、そこに至る過程に《おてんとうさまがほしい》が置かれる。「ケアを受ける身体/ケアを与える身体」への差し迫った関与は、僕らが慣れ親しんできたものとは別様の「身体」の焦点化を否応なしに促すだろう。何らかの理由があって行動が始まり、その目的が達成されることで終わる……といった活発で機能的な身体とは別の身体の運動(の不可能性)が描かれなければならない。優れた「福祉(ドキュメンタリー)映画」の数々は、「若さ」を称える時代であった高度経済成長への熱狂が終わり、社会が「老い」や「病」に直面せざるを得なくなった日本において、機能性や生産性とは別の観点による「身体」や「運動」との出会いを僕たちに促した。そしてそれらの成果は、福祉政策の刷新や拡充の必要性が現実に顕在化する流れにも共鳴しつつ、(ドキュメンタリー)映画そのものの在り方をも変貌させ、「現代性」へと導くことになった。それらは、ハリウッド産のアクション映画とは似ても似つかないが、それでも僕らが確実にその「アクション」(の困難や停滞、不可能性等々)に釘付けになり、胸を打たれることになる、別種の「アクション映画」なのであり、佐藤真も敢然とそこに参戦することになるのだ。
 フランスの哲学者ジル・ドゥルーズが書いた『シネマ2*時間イメージ』の第8章「映画、身体と脳、思考」が、身体との関わりのもとでの現代映画の在り方を考えるうえでいまも重要な参照点になる。そこでの議論を部分的に参照しつつ、それを《おてんとうさまがほしい》での「身体」に繋げることで本稿を締め括ることにしよう。

身体はもはや思考をそれ自体から分離するような障害なのではなく、思考するにいたるために思考が克服しなければならないようなものでもない。反対にそれは、思考が思考されないものに到達するため、つまり生に到達するために、その中に潜入する何か、潜入しなければならない何かなのである。だからといって身体そのものが思考するのではなく、身体が執拗に頑固に思考することを強い、また思考から逃れるもの、つまり生を思考することを強いるのである(ジル・ドゥルーズ『シネマ2*時間イメージ』宇野邦一他訳、法政大学出版局、2006年)。

 同章のほぼ冒頭に記されるこのドゥルーズの文章は、あまりにも西洋的な発想に読めるかもしれない。しかし、次のように嚙み砕いて説明すれば、僕らにとってもいたって身近なものと響くはずだ。思考にとって身体は邪魔ものである、と僕らはついつい考えてしまう。私は思考したい、なのに身体がさまざまな「障害」として立ちはだかる、というわけだ。いま僕はこの締切りを過ぎた文章を急いで仕上げなければならず、そのためには僕なりの思考の継続が必要である。なのに、先ほどから空腹に苛まれている。もう少し我慢しよう、いまはそのタイミングではない、と言いくるめようとしても、空腹は頑固に消え去らず、ついに頭が動かなくなる。仕方がないので思考と執筆を中断し、何か食べ物はないかと冷蔵庫を開けるが、それだけでは終わらない。簡単な調理や食事に時間を割く必要があり、食後すぐに仕事が再開できるとも限らない……。お腹が減る、寝不足である、体調を崩す、親や友人と喧嘩してしまった、誰かに恋をして、他のことが考えられなくなる……。そうしたもろもろの「身体」の要求が僕たちの思考を乱し、十分な思考の妨げになる。だからこそ、思考はそうしたわがままな「身体」の克服を目指す。しかし、事態は逆になるのではないか、とドゥルーズは言うのだ。いまや思考は、そうした「身体」の障害を無きものにすることで、つまりは「身体」を括弧に入れることで「思考しえるもの」に安住するのではなく、「思考されないもの」に向かわねばならず、そのために「身体」に潜入を果たさなければならない。それでも身体は頑固である。お腹が減るとそれを満足させなければならないし、便意を催せばトイレに走らなければならない。恋に破れた心がいつ癒され、思考を再開できるかもわからない。しかし、思考は「思考から逃れるもの」に迫る。むしろ(思考しない)「身体」によってそれが強いられるのだ。
 《おてんとうさまがほしい》で僕らが目の当たりにするトミ子さんの「身体」は、そうした「思考から逃れるもの」への思考、「生を思考すること」を頑固に、そして執拗に僕らに強いるのではないか。トミ子さんの入院直後の映像なのだろうか、当初は不安定に動く手持ちカメラが病院の玄関の自動ドアの前で止まり、ガラス越しに屋外を見やる、そんなショットがある。それはまるで閾を映すかのようだ。逆光でシルエットになった人々の慌ただしい出入りに従って自動ドアは開閉を繰り返し、それほどまでに緩やかな、しかし厳格な閾がそこにある。そして、自分の妻はもはやこちらの、病院の側にいる……。そんな素晴らしいショットに、以下のような渡辺のVOが重なる。人類は月にロケットを送り届けるまで科学を発達させた、なのに何が原因で妻がアルツハイマーになったかわからず、それを治す薬もない。不思議に思うんですね……。「痴呆症のなかにも色々なしぐさを示す人がいて、トミ子のように大きな声を出したりね。何もしゃべらない人もいるしね。世のなかには考えれば考えるほど、考え切れないことがありますよね」。別の箇所で渡辺は、病とは「終わりがあって終わりがないもの」であり、「地球がくるくる回る」のと同じだという。そして、人間は病にとり憑かれているのだ……と。考えれば考えるほど考え切れないこと、それは「思考から逃れるもの」である。妻の頑固な「身体」に日々接しながら、彼はそんな「思考されないもの」への思考を促される。そして、それは、映画を見る僕らにしても同様なのだ。
 ドゥルーズに戻ろう。先に引用した記述に続き、思考の諸カテゴリーを確固とした前提とし、そこに「生」を出頭させる従来の手続きを破棄し、むしろ思考を生の諸カテゴリーに投げ込むこと、それによって生じる眩暈めいた動揺にこそ、思考が到来すると彼は述べる。それでは、生の諸カテゴリーとは何か。

生の諸カテゴリーとは、まさに身体の態度であり姿勢なのである。「われわれは身体が何をなしうるか、ということさえわかっていない」、その睡眠、その酩酊、その努力、またその抵抗において身体は何をなしうるのか。思考するということ、それは一つの思考しない身体がなしうること、その能力、その態度あるいは姿勢を学ぶことである。まさに身体によって(もはや身体の媒介によってではなく)、映画は、精神と、また思考と結びつく。「だからわれわれに一つの身体を与えてください」、それはまず日常的な身体の上にカメラを据えることである。身体は決して現在に属しているのではなく、以前と以後を内包し、疲労、待機を内包している。疲労、待機、また絶望さえも、身体の態度なのである(ドゥルーズ、前掲書)。

 これ以降、ドゥルーズの文章はミケランジェロ・アントニオーニへの短めな言及に移るが、僕らはこうした記述を《おてんとうさまがほしい》のトミ子さんに引きつけて読む誘惑に駆られる。入院初日のエピソードだろうか、「疲れた?」と慎重に訊ねる夫に対し、「疲れた、疲れた、私は」と妻は遠慮なしに応える。彼女の身体が映画で見せる、あの疲労、酩酊、そして抵抗……。そんな「身体の態度」や「姿勢」を「学ぶ」ために、この映画はあるのだと思われるし、またそのために渡辺は「本当は自分の家内がこうした姿になったのを撮りたくなかった」にもかかわらず、妻の「日常的な身体」にカメラを向けるのだ。女性看護師ら(ケアを与える身体)が患者(ケアを受ける身体)を風呂に入れたり、彼らのための食事を調理したりする様子が綴られ、食堂を横移動で映したりする、そうした点描のモンタージュを背景とするVOで、渡辺はいつもにも増して語気を強めながら次のように語っている。「だから皆さんが、ボケたら子供みたいになるという、それは嘘ですね。人生の長い色々なね、生活してこられた方がね、こういう病気になったからといって、やっぱりね、私は痴呆症になっても子供になったとは思いません。やっぱりね、一人のね、社会人としてね、見なくちゃいけませんね。絶対子供じゃない。何でも知っていますよ。ただ、口で言えない。言葉が出ないというだけでね」。
 何か意味不明な片言を繰り返し、うなだれる。だが、その身体は「何でも知っている」。言葉に出せない思考、顔の表情などからは容易に読み取れない何か……それを学ぶこと。トミ子さんが映画のなかで示す態度や姿勢は、単に現在に属するものではなく、「以前と以後」を内包している。彼女は「以前」の堆積に疲労し、何かを、「以後」を待機している。すなわち、それは「時間」を注入された身体である。アントニオーニとモーリス・ブランショの思考との共通点を示唆したうえで、ドゥルーズは次のように続けている。「それは何らコミュニケーションをめぐるドラマではなく、身体の途方もない疲労であり、『さすらい』【引用者註・アントニオーニの初期作品のタイトル】の背後にある疲労であって、思考に『伝えがたい何か』、『思考されないもの』、つまり生を提起するのである」(ドゥルーズ、前掲書)。実際、僕らはトミ子さんの疲労した身体に「伝えがたい何か」、「思考されないもの」、つまりは「生」を見出す。力なくうつむき、ほとんどコミュニケーションに抵抗するかのようなトミ子さんの身体に、彼女が颯爽としていた頃の写真を、その姿勢の類似を介してモンタージュするシークエンスについて、僕は佐藤真の遊び心と残酷さが垣間見えると先に書いた。しかし、それだけでなく、それは彼女の身体が単に現在に属するものではなく、「以前と以後」を内包したものであることを示す試みでもあっただろう。

 エンディングが近づくにつれて、映画はいくらか「主張」じみた言説に近づく部分がある。だが、その終わらせ方は佐藤真らしく軽やかだ。飲む動作を目の前でやってみせることで、何とかトミ子さんに液体を飲ませることに成功した渡辺は、なぜかその病院のラウンジのような場所から立ち去り、後ろ姿を見せる。落ち着きを取り戻し、ちょっと困った様子になったトミ子さんは、ふと傍らの三脚に固定されたカメラ(と観客)に視線を向ける。あるいは、それに続く、縦の構図による病院の廊下を歩くトミ子さんの後ろ姿を映す最後のショット。オフの声で誰か女性が彼女の名前を呼ぶ。すると、彼女が振り返る。まだ入院から時を経ず、映画後半での憔悴の「以前」にある彼女なのだろう。しかし、そこで僕らが思わず微笑むのは、彼女が呼びかけに応じ、コミュニケーションが成立するからではおそらくない。振り返る、という、その単純な身振り、仕草そのものが、まるでそれを初めて見るかのような感動を孕み、それに心を動かされるのだ。
 若い頃なら手をつないだり、キスしたりして、それが愛だと思えるものだが、本当に試されるのは、互いに年齢を重ねてからで、妻がこうした状態になっても私は彼女を支えるし、立場が逆であったら彼女が私を支え、毎日病院を訪ねてくれただろう、それが夫婦の愛なのだ……と映画の終盤で渡辺は語る。なるほど立派な正論であるとは思うが、自分には配偶者の介護などできない、無理であると諦める人たちもたくさんいるだろうし、それをもって彼らに愛がないと断じることができるのだろうか。佐藤真は、本作を、誰かが相手のために献身的に奉仕する、そんな自己犠牲を手放しで称える類いの映画ではなく、むしろ人目をはばかることなく手をつなぎ、キスを交わしてもおかしくはないカップルの映画、だからこそ、少しばかり気恥ずかしくもある恋愛映画に仕上げている。そしてそのことが、「極私的」な設定である本作に、プライヴァシーの覗き見めいた閉鎖性や悪意を一切欠いた、豊かで開かれた地平をもたらすのではないか。ちょうど本作が作られた頃からデジタルビデオの一般化に伴う「私的ドキュメンタリー映画」の流行が若い世代を中心に見られ、佐藤はアンビヴァレントな態度でそれに臨んでいた。「自己表出の表現領域」の広がりを否定するつもりはないが、それらの映画が「生の素材の魅力だけで作品が完成してしまう危うさを孕んでいる」と釘を刺すことで批判的(保守的?)な立場をも引き受けたのだ。そして、そうしたアプローチの成否は、「私性の孕む本質的なフィクション性をいかに自覚して戦術、戦略を練り上げるかにかかっている」のだとも映画作家は付け加えていた(佐藤真『ドキュメンタリーの修辞学』みすず書房、2006年)。そう、渡辺が撮った「生の素材の魅力」を「恋愛映画」として「構成・編集」する「戦略、戦術」を佐藤真は立て、それは見事な成功を収めたのではないか。《おてんとうさまがほしい》は、卓越した「身体」の映画であり、だから当然のごとく、切なくも心温まる「恋愛映画」でもあるのだ。

きたこうじ たかし/映画批評家、京都芸術大学教授
新聞、雑誌、劇場パンフレットなどで映画批評を中心に執筆。著書に『王家的恋愛』、最近の共著に『青山真治クロニクルズ』(近刊)、『エドワード・ヤン 再見/再考』、『アピチャッポン・ウィーラセクタン 光と記憶のアーティスト』、『ジャン=リュック・ゴダール(フィルムメーカー21)』などがある。

「狂気」と「玉手箱」——《保育園の日曜日》について

加藤 治代

 佐藤真は、私の先生でした。
 病気の母を撮影するため、私は東京にある映画美学校のドキュメンタリー科に通い始め、佐藤さんの授業を受けることになりました。この時始めた撮影は、後に《チーズとうじ虫》という映画として、沢山の方に観ていただける作品になるのですが、撮影開始当初の私に、高尚な動機や誇れる程の経験はありません。例えて言うなら、保育園児が「大きくなったらサッカー選手になる」と、サッカーをしたこともないのに日本代表を夢見るくらいの幼稚さと空回りしがちな根性で、電車で片道2時間以上かかる田舎の町から、母の調子の良いとき、私のお金と時間があるときに通っていました。
 佐藤さんは、長身で少し猫背、いつも鳥の巣のようなぽさぽさの髪をしていて、よれよれになった競輪のTシャツをよく着ていました。お酒が大好きで、ドキュメンタリーについて語るべき授業中に、競輪の素晴らしさを熱っぽく説く・・・とてもじゃないけど著名な映像作家には見えないのが、その頃の佐藤さんです。
 ドキュメンタリー科の生徒はみんな頭がよく、理屈っぽく、とても変わっている人が多かった。それを見るたび、自分がいかに普通であるかということに、密かに安堵したりしていたのですが、加えてどの生徒も、みんな驚くほど・・・優しい。その人たちが「先生」と呼び、慕う佐藤さんも、理知的でお話上手な面白い方です。
 「私は母の具合が悪くなると、どうしても母を撮影することはできません」と授業の時、佐藤さんにお話ししたことがあります。着替えを手伝ったり、食事の用意をしたり、母を車に乗せて病院へ行ったり・・・。入院中も強い抗がん剤の治療をしていた母に付き添い、看病をしているとカメラを持つ手が全くないのです。私にとって一番大切なのは、母あるいは家族であり、決して撮影ではありません。そのことに思い悩んでいると「そんな加藤さんだから撮れる作品が、必ずあります。大丈夫」と言って励ましてくれる、とても優しい方でした。
 ただ、ある批評家が「佐藤真は穏やかな顔の下に、何か狂気を隠し持っている」と言ったように、知性だけでは説明のつかない、何か鋭い針のような怖さがあって、でもその頃の佐藤さんは、鳥の巣のようなぽさぽさの髪で、その「狂気」に蓋でもしているかのように、とても元気で寛容で、はつらつとしていました。
 「いつも、批判的精神を持っていなければいけない」と佐藤さんは授業で何度も言っていました。ドキュメンタリーの人たちは、優しさと批判的精神という相反するものを、常に抱えていることからくる不器用さがあるように思います。

子どもを撮るということ

 子どもが生まれると、どのご家庭でもビデオや写真で子どもたちの成長を記録します。現在は、ビデオカメラだけではなく携帯電話でも簡単に、そしてきれいに撮影することが出来るし、デジタルで劣化の心配なく保存できるのですから、最強です。
 佐藤さんが亡くなった後、私は双子の女の子の母になりました。カメラは重いしあちこち駆け回らないといけない・・・私にとって撮影は少し気の重い作業です。でもこんな私でも、自分の子どもが生まれれば変わることができるかもしれない。可愛さのあまり、人が変わったように嬉々としてカメラを回すようになるのではないか、と淡い期待をしていました。でもいざ母になってみると、全くカメラを持つ余裕などありません。ミルクをあげ、おむつを替え、泣く子を黙らせ、寝かしつけ、掃除、洗濯、食事を作ると、寝る暇も無いのです。赤ちゃんというのは想像以上に何も出来なくて、こちらが手を抜くと死んでしまうのではないかという怖さが常にあります。生き物として非常に無力でか弱い。そんな彼女たちを守り育てるため、愛情だけではなく、義務感、責任感、正義感、闘争心といった使えるもの全部をかき集めて生活していました。私にとって“育児はまさに格闘技”なのです。
 子どもが保育園に通い出した頃、少し時間に余裕が出来た私は、保育園へ撮影に行きました。仲良くなったママ友たちに、親の知らない子どもたちの保育園での生活を見せてあげたかったからです。キメが細かくてみずみずしい肌や泣いても怒ってもそれをカメラの前で隠そうともしない真っ新な自意識が、撮っていてとても楽しい。この面倒くさがりの私でさえ、夢中で子どもたちを追ってカメラを回し続けました。この頃になると子どもたちの活動範囲も広がりママ友同士で助け合ったり愚痴を言いあったり、子どもを介して新しい人間関係が出来ていました。
 娘たちが思春期に入ってきた頃、私との関係にも変化が生じてきました。幼いころは素直で可愛らしかったのに、今では私が何か言うたび「わかってるよ」と怒ったように返事をします。これを世間では「成長」というらしいのですが、親というのは非常に空しいものだと思うことが多く、と同時に、同じ思いを私が母にさせていた事を、今更ながら反省してみたりもしています。
 幼い子どもの映像というのは、その親にとってこそ意味のある記録です。正しかろうが間違っていようが、その頃の自分の精一杯の時間と、全身全霊で必要とされた幸せがそこにあるからです。子どもにとって、何某かの価値をその映像の中に見出すには一定の成長と経験が必要なのかもしれません。自分で失恋をして初めてその痛みが理解できるかの如くです。
 佐藤さんは授業で、何度かご自身のお子さんの話をしていました。「娘が通っている保育園の保護者同士で、今度一緒に映画を作ろうって盛り上がりまして・・・」。少し照れた様子で、でも楽しそうに話していたのをよく覚えています。
 子どものいない日曜日の保育園で仲良くなった親同士が、お酒を飲みながらわいわい楽しく撮影している・・・そんなところに“佐藤真という映像作家”が発動すべき批判的精神などあるはずもありません。でも逆にそのことが、この作品をとても魅力的なものにしているのかもしれない。“佐藤真という父親”の立場から作った《保育園の日曜日》には、子どもの目線に立って考えることの大切さや、何より孤独や辛い事も多い子育てを、楽しいことに引き上げてくれる明快さがあるように思うのです。

浦島太郎

 作品の中、お父さんたちが列を作って移動しているシーンが出てきます。列の最後尾に、佐藤さんご自身の姿がありました。動いている佐藤さんを見るのは何年ぶりでしょうか。子煩悩な佐藤さんが、仲良くなったお父さんたちとビール片手に楽しそうに撮影をしている・・・。それは私が授業を受けていたころの、競輪のTシャツを着ていたころの、元気な佐藤真、そのままの姿でした。
 こんなに無邪気でかわいらしい作品を見て、なぜ悲しく腹立たしい気持ちにならなくてはいけないのでしょうか?
 私は、玉手箱を開けてしまった浦島太郎の様に、途方に暮れてしまいました。

 気が付くと、私は佐藤さんが亡くなった時の年齢をすっかり超えていて、私の子どもたちもこの春中学2年生になります。この作品が作られてから20年以上経っていることを考えると、映画の中の赤ちゃんも成人になっているはず。子どもを撮影するというのは、その成長が前提にあり、撮影されてから時間が経てば経つほどその変化が当初の映像に含まれていたものと違う、別の意味を産み落とすこともあります。
佐藤真の不在は、私が自覚している以上に大きく、深いようです。どうしてこのままでいられなかったのか・・・《保育園の日曜日》を見て、そんなくやしさを感じました。
 無邪気にかわいく歳を取るのは、悪いことですか?
 もちろん、ドキュメンタリー作家にそんな事が出来るはずも無い。「私は、例え無能と言われようとも、絶対、無邪気でかわいいおばあちゃんになってみせる」。時々、そんな事を考えたりしています。

かとう はるよ/《チーズとうじ虫》監督
1966年生まれ。群馬県在住。多摩美術大学美術学部芸術学科卒業後、スチールカメラマンのアシスタントを経験。《チーズとうじ虫》制作後、結婚し現在、二児の母。

サインを聴く/観る/学ぶ——時枝俊江の保育映画

田中 晋平

 発明されたばかりのシネマトグラフによって、オーギュスト・リュミエール夫妻が幼い娘アンドレに食事を与えている様子が撮影され、上映されたのが128年前。以来、子どもは映画の可能性を押し広げる表現者であり、かつケアを受ける存在でもあった。子どもを演出した優れた監督やその映画を、誰もが即座に思い浮かべられる。チャップリンの《キッド》(1921年)や小津安二郎の《突貫小僧》(1929年)、ジャン・ヴィゴの《新学期・操行ゼロ》(1933年)などなど、わんぱくな子どもが大人たちをかき乱して躍動する映画群を挙げていけば、際限がない。ミニシアター世代なら、《ミツバチのささやき》(1973年)や《冬冬の夏休み》(1984年)、《ともだちの家はどこ?》(1987年)などに胸を抉られる映画体験を与えられてきたはずだ。もちろんケアとは無縁の過酷な生、《ドイツ零年》(1948年)のエドムント(筆者は「ヤングケアラー」という言葉から即座に彼を想起する)や《大人はわかってくれない》(1959年)のドワネル、《動くな、死ね、甦れ!》(1989年)のワレルカとその守護天使ガリーヤたちの、凍てつくようなまなざしを想起すれば、それらを一言で「子どもの映画」と呼び、分類する不当さも際立つに違いない。言うまでもなく、ドキュメンタリー作品にも、チリの軍事政権下で開かれた映画教室を撮影している《100人の子供たちが列車を待っている》(1988年)など、古びることのない傑作が数多ある。だが、本邦で制作されたいわゆる教材映画やPR映画における子どもの表象が回顧される機会は、羽仁進《教室の子どもたち》(1955年)などの一部の試みを除けば、それこそ不当に少ない。岩波映画製作所で、1953年に《幼児生活団の報告》の演出でデビューした時枝俊江が、その後に長く携わる保育映画も、再発見の機会を俟たれながら、フィルム・アーカイブの奥に眠っていた。
 《ともだち》は、東京のある幼稚園に入園した子どもたちの、4月から夏休みまでの期間に密着し、撮影されている。冒頭のナレーションを踏まえると、彼らは「家庭」と「社会」の間で宙ぶらりんの状態にあり、それを繋ぐ場としての幼稚園に通う(その声と重なる映像では、子どもたちが文字通り窓の欄干の傍、屋内と屋外の間に身を置いている)[1]。入園したばかりの幼児は、空気のように漂った状態で、親の手を離れて泣き出す者もいるけれども、彼らを導く藤村美津先生と一緒にリズムを刻んで遊び、身体を解すことから、少しずつ不安を解消する[2]。「幼児は皮膚で会話する」というナレーションの台詞も響くように、手を繋ぎ、肩を触れ合わせる中から「ともだち」が生まれ、互いを名前で呼ぶようにもなる。やがて園の生活はグループ単位を軸にした活動に移るが、一旦固定したかに見えた関係性も、数日子どもが休むと脆く瓦解したり、仲直りしたりという出来事が繰り返される。子どもにとっての集団と個の関係が、どれほどダイナミックに変化し、悲喜交々の感情を抱かされるものだったか、映画を観るかつての子どもたちも、思い起こさせられずにいない。

 今回の中之島映像劇場で上映するもう一本の時枝の映画、《ともだち》の17年後に製作された《子どもを見る目―ある保育者の実践記録から―》も、幼稚園に通う子どもたちの数日間の集団生活を捉え、彼らが遊びの中で創造性を発揮していく様子を記録している。箱積木で遊ぶのに、少し飽きていた男の子たちの集団、そのリーダー格だった少年がある日幼稚園を休む。そこでグループの他の園児たちに、大きな段ボール箱を与え、箱積木と組み合わせて、自発的に別の遊びを試みるように先生がサポートする[3]。カメラは、役割分担の固定された園児とモノとの関係性が一旦解け、滑り台にトンネルをつけたり、段ボールに紐を通してエレベーターを工作するなど、子どもたちの工夫や発見が生まれる瞬間に立ち会っていく。休みから戻った少年も加わり、やがて陸(箱積木の上)と海(床)の境界が引かれ、併せて子どもも人間と鮫に分かれてそれぞれ生態系を形成する。醤油のボトルで酸素ボンベを作ったり、豆腐のパックを水中メガネに換えて、いよいよ遊びが熱を帯びていく。その様子に惹かれて別の場所にいた女の子たちも、お弁当を抱えて男の子たちの箱積木に遊びに訪れる。
 以上の《子どもを見る目》や、同時期に発表された《こころをひらく―育ちあいをもとめる保育―》(1981年)、あるいは《子どもはうったえている―幼児と保育者とのかかわり―》(1982年)などの時枝の映画にも認められるのが、単なる状況説明や効果とは異なる、音声の役割である。たとえば、ある子どもと別の子どものやりとりにカメラがフォーカスする場合でも、常に画面外の他の園児らの喧騒が響いてくる。会話の内容が聞き取りづらいショットもあるが、映画を観る者に対し、画面の子どもらの発話や身振りを、より広いコンテクストを意識して把握することを促すかのようである。かつて土本典昭は、次のように時枝の試みを評していた。

彼女[時枝俊江]の音声に期する新しいドキュメンタリーの方法論の意義には、通常の音声とはまったくちがった意味がこめられている。例えば『子どもを見る目』や『光った水とろうよ』で一作ごとに推し進めている方法は、映画を作られたイメージの表現化ではなく、そこでの触発に感応し、考え、つきつめていく意識としての同時進行のドラマ、記録者が音に耳を傾けていくことによって見えてくる世界を双方から記録しつつ、彼女自身の学んだもの、つまり細部に宿りたもうた神々を見る作業―そのモメントとしての音声なのである[4]

言及されている《光った水とろうよ》(1979年)では、冒頭「ひとりひとりの保護者によって さらに問題が掘り下げられることを願い 解説をつけず素材をそのまま出しました」という字幕の後、ナレーションも一切なしで、《子どもを見る目》と同じ幼稚園の庭や屋内で遊ぶ園児たちの姿が、次々と映し出される。はじめて感受する光や音に反応するたび、子どもたちが感嘆し、活発に動き回る傍に、ひたすらカメラとマイクを寄り添わせることで、保育映画が「ダイレクト・シネマ」の実践に変貌していく。
 こうした試みには、子どもたちの発達を見守る保育者たちが、現場で何を観察し、聴取しているかを、映画を観るわれわれに想像させ、擬似的に実践させる狙いがあると言える。たとえば、《ともだち》に先生として登場した藤村美津が、後に伊藤雅子と共著で記していることが参考になる。

保育者たちが親たちにくらべて子どもをよくつかめている部分があるとするならば、それは、保育者たちが仲間との関係の中にいる子どもを見ているということが一つの要因になって、子どもがよく見えるのだと思います。これはおとなの場合も同じですが、その子一人をとり出してみつめていては見えないことも、人の中に身をおくことでくっきりと見えてくる—これは子どもの〈育ち〉を見る上での大きな鍵だと言えないでしょうか[5]

時枝の映像―音声の実験は、このような保育者の視座から浮かびあがるもの、幼稚園の集団や、箱積木、段ボールなども含めたモノとの関係性のなかで生きる、子どもたちの〈育ち〉を観る/聴くレッスンなのだ。
 《こころをひらく》と《子どもはうったえている》では、学校の先生と時枝と思われる人物との対話する声が画面に重なり、映っている幼児たちの振る舞いが考察されるスタイルが用いられ、映画を体験するわれわれにも、何をそこに読み取るべきか、具体的に提示していく。また《こころをひらく》の末尾で、集団の中にはいろんな子どもがいること、保育者はそれぞれの子どもたちの信号やサインを捉え、読み取る力が必要であり、それによって「保育者と子どもが育ち合わなければならない」、という声が入る。この「サイン」は、映画の画面をただ漫然と眺めるだけでは顕現しない。たとえば、《こころをひらく》のなかに登場するある少年は、友達と一緒にサッカーをやりたいが、ルールを把握することができない。それでも、みんながサッカーで遊ぶ傍で一人ボールを持って駆け回る。その内に、少年が同じ場でグルグルと回る姿が映ったとき、ボイスオーバーで先生が、実はそれが彼にとってのうれしい時の「サイン」だと教える。映画を介して少年の身振りにはじめて接するわれわれには到底読めない、個別の子どもが発する信号を、先生たちは日々キャッチしようと試行錯誤を繰り返す。逆に言えば、時枝の保育映画は、いかに世界が見逃された小さな声や、サインに満ちているのかを告げてもいるのだ。
 細部に宿るサイン(=神々)を発見する営みは、保育に限定されるものではなく、あらゆるケアの空間で常に行われている試みでもある。現象学者で、ケアの現場を取材し続けてきた村上靖彦の言葉を引用しておきたい。

意識が薄れている人、身体が動かない人もまた何かを伝えようとする。指のかすかな動きかもしれないし、瞬(まばた)きかもしれないが、キャッチする人がいればそれはサインとなり、キャッチすること自体がケアとなる。あるいは暴言や暴力や何らかの精神症状という形で自らの苦境を表現する人もいる。しかし、そのような表現は、それを「SOS」として聴き取る人の耳にとってのみサインとなり、聴き取ることそのものがケアとなる。
当事者のサインがなんとか受け止められ、試行錯誤のなかで対応されたとき、ケアが始まる。言うまでもなく、このようなケアが始まるための前提条件として、苦痛や苦境のなかにある当事者とコンタクトを取ろうとするケアラーの側の努力がある[6]

この指摘は、時枝の試みてきた映像―音声の実験を理解する導きになるだけでなく、「ケアする映画」がその記録の現場から、どのようなイメージを持ち帰らねばならないかを考えるヒントを提供してくれる。ケアラーが察知するサインを、映画を観る者の知覚にも共有させる、そのための方法を無数に編み出さねばならない。
 さて、土本も上記の引用箇所の後で指摘しているように、後年研ぎ澄まされる時枝の映像―音声へのアプローチに較べ、《ともだち》の演出は、いまだ同時録音を行う技術や環境が整えられていない制約もあり、模索段階だったと言えるかもしれない。しかし、劇作家の秋浜悟史が手掛けたナレーション、先生の声、子どもの声、さらにピストルなどの効果音や三木稔の音楽と映像イメージの混然とした絡まり合いは強いインパクトがあり、いま見ても刺激に富む[7]。何より、一人一人の子どもに配慮する藤村先生の姿を追いかけて、集団生活をはじめたばかりの園児たちが発するサインを、時枝たちも必死に読み取ろうとしている様子が、画面から伝わる。教室に設置されたアリフレックスSTが映り込み、園児たちが興味を示して覗き込むイメージが象徴的だろう。映画クルーは観察者として、外から集団生活を眺めるのではなく、状況にアクター(行為者)として関わり、子どもたちと刺激を与え合いながら、一日一日成長を遂げる彼らをどう撮影するか、毎日もがいていたはずだ。その試行錯誤の痕跡が、後年に時枝の手掛けた革新的な保育映画とはまた異なる、瑞々しい魅力を《ともだち》に付与している。
 とりわけ瑞々しさが溢れるのは、《ともだち》のラストシーンかもしれない。夏休み前の子どもたちが、幼稚園でのキャンプファイヤーのあと、教室に布団を敷いて、ともだち同士で眠る姿。そこに「君たちが明日はわれわれの社会を乗り越えてくれるだろうことを望み、信じる次第です」というナレーションが重なる。大人たちの社会を維持したり反復するのではない、「乗り越える」という言葉をあえて秋浜や時枝が選んだこと、そこに彼らが保育に投影していた希望が読み取れる。今ある世界のかたちが瓦解した後、その未来に息衝くであろう存在の小さい声を聴き、まなざしを向けること。冒頭で挙げた、映画史を駆け抜けた子どもたちのイメージが、観客に示していたのも、このような未来のサインではなかっただろうか。フィルム・アーカイブの奥に眠ったままの子どもたちの姿と声、その可能性を信じ、もう一度甦らせねばならない。

  1. ^この空間の内と外にまたがる子どもの姿から、筆者は相米慎二の《台風クラブ》(1985年)に登場する、学校や自宅のベランダ、窓にのりだす中学生たちの身体を想起する。
  2. ^浦辻宏昌によると、《ともだち》に登場する藤村美津の夫は、近江学園大木会の事務局長だった。時枝が当時のパートナーで、一時期うつ状態になった柳澤壽男を藤村に紹介、「近江学園に一度遊びにきなさい」と誘ったのが、のちに《夜明け前の子どもたち》に至る繋がりを生むことになった。岡田秀則・浦辻宏昌編著『そっちやない、こっちや―映画監督・柳澤壽男の世界』新宿書房、2018年、306-307頁。
  3. ^《子どもを見る目》で記録されている先生と園児たちの活動は、以下でレポートにまとめられている。吉田真弓「学級集団の成長―箱積木を使って」『保育とカリキュラム』1978年8月号、22-26頁。
  4. ^土本典昭『不敗のドキュメンタリー―水俣を撮りつづけて』岩波現代文庫、2019年、208頁、[ ]内引用者。
  5. ^藤村美津・伊藤雅子『育児力』ちくま文庫、1990年、294-295頁。
  6. ^村上靖彦『ケアとは何か―看護・福祉で大事なこと』中公新書、2021年、3頁。
  7. ^特に興味深いのは、秋浜によるナレーションの台詞である。集団から孤立した子どもを、下界から離れた「天使」と表現するなど、単なる状況説明や保育の理念を語るのではない、子どもらの想像力を追いかけ、追い抜くような多彩な言葉を響かせる。なお秋浜もまた、のちに《夜明け前の子どもたち》の脚本に参加し、さらに滋賀県湖南市にある知的障害者施設のあざみ・もみじ寮の関係者らとの創作劇に携わっていく。

たなか しんぺい/国立国際美術館客員研究員

1968年の発達要求——解題《夜明け前の子どもたち》

深田 耕一郎

1.びわこ学園と《夜明け前の子どもたち》

 1968年公開の《夜明け前の子どもたち》は、滋賀県にある「びわこ学園」の療育実践を記録した「療育記録映画」である。「療育」とは、重度の重複障害を持つ人たちへの、医療と教育のふたつが重なりあう働きかけをいう。さらに、障害児療育の先駆的な実践を展開してきたびわこ学園は「発達保障」という概念を生み出し、本作ではその試みが描かれている[1]
 びわこ学園とは、「この子らを世の光に」で知られる糸賀一雄(1914-1968)らが設立した児童福祉施設・近江学園(1946年~)をルーツとして、1963年に開設された重症心身障害児の支援施設である。1966年には、びわこ学園から比較的軽度の入所者が移動する形で第二びわこ学園が設立されている。映画に登場するのもこのふたつの施設「第一びわこ学園」と「第二びわこ学園」である(現在は「びわこ学園医療福祉センター草津/野洲」)。
 本作の撮影が開始されたのは1967年4月だが、それ以前から近江学園には「研究部」が存在し、重症心身障害児療育の研究が精力的に行われてきた。撮影した療育の映像記録を検討し、実践に活かすという取り組みも積極的に行われた。1964年にはNHKの番組《三歳児》に参加、1965年には近江学園を取材した《一次元の子どもたち》が東京12チャンネル(現テレビ東京)で放映されている。
 こうした前史もあり、1966年には近江学園の伴走組織である財団法人・大木会が心身障害者福祉問題綜合研究所を設立、その研究所事業として映画製作が企画される。映画製作委員会が設置され、委員には糸賀一雄、びわこ学園・園長の岡崎英彦(1922-1987)、映画監督の柳澤壽男(1916-1999)らが参加し、委員長には研究部主任の田中昌人(1932-2005)がついた。このように本作はびわこ学園が組織的に製作した作品であり、今日的に見れば、びわこ学園の療育実践が記録されたきわめて貴重な映像資料である。
 映画班に目を向けると、監督は文化映画やPR映画の分野で多くの仕事を残してきた前述の柳澤壽男。撮影は戦前に亀井文夫の映画に参加し、キャメラマンの三木茂に師事した瀬川順一(1914-1995)。脚本は1967年に紀伊國屋演劇賞を受賞している劇作家の秋浜悟史(1934-2005)、音響はアニメ《鉄腕アトム》の音響技師だった大野松雄(1930-2022)。当時からすでにキャリアのある著名な作り手たちがこの映画の制作に携わった。
 本稿では、びわこ学園が生んだ「発達保障」の概念に触れながら、この映画が何を描いているかを考える。映画は「この8月、この国には、いわゆる重症心身障害児の生命が親の手で絶たれるということが4つのケースあった」と伝えているが、2016年7月に津久井やまゆり園事件を生んだこの社会にとって、本作が投げかける問いは決して終わっていない。

2.相互の発達要求

 《夜明け前の子どもたち》はいくつかの曲折ののち、1968年4月に完成を迎えた。上映世話人会が発行する冊子に、糸賀と田中の共同執筆という「ごあいさつ」が掲載されている[2]。少し引用すると、映画製作に2年かかったが、「子どもたちにこたえていくのはこれから」とあり、「さらに長期間をかけて社会的責任を果たしていかなければなりません」とある。そして、この映画は「すべての人間の発達を保障しなければならない」とする発達保障の実現を課題にしているという。このように、本作は、重症心身障害児が求めている「発達の要求」に応え、それを保障していかなければならないという思いが込められていた。

製作にあたったわたくしたちが自己を変革していかなければいけないのだということをつよくしらされました。子ども、父母、職員とともに、わたくしたちの障害についての認識のしかたのいわば発達障害をみつめなおし、そのことによってわたくしたち自身の発達を保障していくなかで、作品づくりの、今ようやく土台をふみしめた思いです。[3]

変わらなければならないのは自分たちだという認識がある。その意味で私たち自身の発達が期待されている。また、別のエッセイで糸賀は「私たちは今日まで、その子どもたちの訴えを聞き流して、その本当の姿を見ることができなかった」と述べて、重症心身障害児という名前を付けているが、子どもたちの本当の姿を見ることができずにいた、「私たち自身の重症な障害の故に付いた名前ではないか」[4]と問いかけている。
 また、この映画の特色は子どもたちが「カメラを通して何を訴えているかということのあからさまな表現」だといい、カメラがとらえた現実は「私たちを鋭く裁き」、私たちはその前に立って「いいわけをするのでなく、しどろもどろになってもこの現実をうけとめて、明日の療育を建設しようとしている」[5]という。
 たとえば、この映画の冒頭は、「重症心身障害児」の目、耳、頬、口のクローズアップから始まる。おそらく、こうしたショットを見た観客はたじろぎ、(糸賀がいうように)「しどろもどろに」なるだろう。実際、ナレーションは「わからないことが多すぎる」と続ける。しかし、わからないのは私たちにそれを受けとめる力がないからだ。あるいは、理解するだけの関係を作れていないからだ。であれば、発達の過程にあるのは私たちのほうではないか。かれらが私たちを通して発達の可能性を引き出されることを待っているのと同じように、私たちもまたかれらを通して発達の可能性が引き出されることを待っている。このように、本作は、相互の「発達要求」を表現した映画なのだといえる。

3.ヨコへの発達

 そのような相互の発達要求が「関係」あるいは「かかわり」を通して取りかわされていく実践が映画には映し出されている。こいのぼりや石運び学習のシーン、そこに登場するほうきを持つ少年、紐を離さないウエダくん、一方で紐に縛られているナベちゃん。箒や紐、石や坂道を媒介にして子どもたちと大人が「関係」を模索していく。ここでは単純に紐を手放せばいいというわけではなく、その人にとっては紐が「心の杖」であり、引き離すのではなく「紐をもっていたっていいんじゃないか」と考えてみることで、決まりきった見方ではなく、かかわりのなかで「私たちが子どもの見方をかえて行くことができる」のだという。
 療育実践の解説を行っているのは田中昌人である。前述の通り、田中は研究部主任で映画製作委員会の委員長を務め、学園の「発達保障」研究の最前線を担っていた。田中自身も画面に登場し「子どもだけが発達していくんじゃなくして、子どもと私たち、そういった関係が発達していく」と述べ、共同作業が「発達」の手がかりになることを語っている。
 「命の必要悪」として紐で縛られていたナベちゃんは、最初、石運び学習に参加できなかったが、紐を解いて参加することになった。田中自身もナベちゃんの石運びに参加しながら、試行錯誤を繰り返していると、ひょんなことから「石を運ばない石運び学習」が生まれ、これを指して「人間関係を運んだ」と表現している。

上の方へ引っ張り上げて行こうとすることによって、根っこが抜けたようにさせてしまう、そうなるんじゃなくして、先生たちの中で合言葉として、いわば「ヨコへの発達」というものを追求していこうじゃないか[6]

この「ヨコへの発達」もびわこ学園が生み出した重要な概念である。石運びをしなければならないということはなく、石を捨てていくことで、友だち関係や人間関係というヨコの関係の広がりに気がついたという。

4.社会への発達要求

 さて、少し話題をかえ、監督の柳澤壽男に触れよう。というのも、柳澤にとってこの映画は重要な意味を持ち、後に「福祉映画五部作」といわれるドキュメンタリーを製作していく、「記録映画づくりの出発点」[7]となったからである。
 しかし、柳澤は発達保障の実践に学んだ一方で、本作の撮影を終えても、「発達保障論が理論としてどういうものかよくわからなかった」[8]という。それは理解が難しかったというよりも、自分なりの納得が得られなかったということだろう。彼がこだわるのは、記録映画監督としての自分が「重症児との関係を深める努力をどれ程したか?」ということである。いいかえれば「被写体と映画監督の関係はどうあるべきか」を深めることができなかった。そうしたなか、療育者や映画班とともに映像記録を見て議論するうちに「仮説を立て現場で実験し、実証する。その過程の中で何かを発見する。見えないものを見つける。それが記録映画ではないか?」と考えるようになった。
 そして、「1968年、ボクの自主上映の旅がはじまった」。1968年といえば、大学紛争やベトナム反戦運動が世界中で吹き荒れた年である。映画を上映し、それを介してみなで議論するティーチイン(討論集会)が各地で持たれた。本作の上映後に座談会を開くと、決まって「発達保障論」について聞かれた。柳澤はびわこ学園で教わった、「すべての人間はその発達において共通の道を持つ」「発達の質的転換の中で豊かさを作る」などと語った。

 しかし、柳澤は「時に賞賛され、時に罵倒された」という。当時すでに「発達保障論」は有効な理論として受容されていたが、一方で「障害者が自らの解放を求めて運動を続けていた『青い芝の会』を中心としたグループから、厳しい『発達保障論』批判」が提起された。「青い芝の会」は脳性マヒ者の当事者団体であり、1960年代から70年代にかけて健常者中心の社会構造を痛烈に批判する告発を行っていた。
 もっとも、柳澤にとってこの論争は「感情的対立」のように見え、結局「両者の論点の違いがよく分からなかった」という。だから、「ボクはいつも曖昧な態度で終始した」。こうした柳澤の態度は意図的で戦略的なものだろう。というのも、本作にはすでに現況の福祉体制への重要な批判が込められている。たとえば、入所者が死亡したさいに解剖承諾書を取られることや、市街地から隔絶した施設の立地、入所者集団を一斉に管理する体制、腰痛症が頻発する施設労働の限界などが映し出されている。この映画は「発達保障論」に学びながらも、それを賞賛するだけでなく、かといって罵倒するのでもなく、福祉の問題構造を的確に捉え、その現実を生々しく伝えている。
 画期的なのは、こうした問題を当事者本人の声から描き出している点だろう。たとえば、映画の終盤では園内の壁新聞『はなたれ』に「はとAグループ」が寄せた文章が映し出される。それは「びわこのげんじょう」と題して「びわこがくえんの、さいだいのききがいまやってきた」と書かれ、腰痛症による職員の大量退職と処遇改善が訴えられている。1968年2月9日の子どもたちへのインタビューでは「ウン、やめんの、やめんの、ぼくたちは、もう、おこってる」「先生がね、先生がみんなやめたらね、みんながね勉強できない」「政府は・・・」「うー、学校へ」(学校へ)「行きたいんですけど」という語りを取り上げている。
 これらは社会への発達要求だろう。社会が重症心身障害児とどうかかわり、「関係」を形成すればよいかが問われている。柳澤はこうしたシーンをいくつか入れている。たとえば、「子どもたちの代表」が花火を買いに大津市内に出かけるシーン、地元の人々との盆踊りのシーンがある。施設は街から遠く、「子どもたちがもっと社会へ出ていくような機会が欲しい」。それは「社会がそれを受け入れることによって成長していくため」なのである。つまり、社会に対する「関係」の発達要求が表現されている。
 映画からは離れるが、1968年、東京では府中療育センターが開設され、上記の「青い芝の会」と交流のあった入所者グループがびわこ学園とまったく同様の施設の管理体制への異議申し立てを行っていく。この動きは地域生活を支える制度の創設につながり、日本版ノーマライゼーションの源流ともなっていく。その意味で、「1968年の発達要求」としての《夜明け前の子どもたち》は、微視的な療育実践の世界でも、巨視的な福祉制度の世界でも、この時代の大きなうねりを生む出発点となった映画なのだといえる。

  1. ^本作に関するきわめて詳細な研究書があるので参照されたい。田村和宏・玉村公二彦・中村隆一編著『発達のひかりは時代に充ちたか?―療育記録映画『夜明け前の子どもたち』から学ぶ』クリエイツかもがわ、2017年。
  2. ^『いちにのさん』1、1968年4月20日。『糸賀一雄著作集3』日本放送出版協会、1983年に再録。
  3. ^同上。
  4. ^『まみず』3(10)、1968年9月10日。前掲『糸賀一雄著作集3』に再録。
  5. ^『まみず』3(5)、1968年4月10日。前掲『糸賀一雄著作集3』に再録。
  6. ^映画内の田中昌人の解説より引用。
  7. ^柳澤についての書籍が2018年に出版されている。筆者も「福祉と道具―世界に作用される体験としての柳澤映画」と題する文章を寄せている。岡田秀則・浦辻宏昌編著『そっちやない、こっちや―映画監督・柳澤壽男の世界』新宿書房、2018年。
  8. ^本段落以降の柳澤の語りはすべて、柳澤寿男「福祉ってなんだろう」『ライフサイエンス』21(9)、1994年。前掲『そっちやない、こっちや』に再録。

ふかだ こういちろう/女子栄養大学・准教授
2012年、立教大学大学院社会学研究科博士後期課程修了。博士(社会学)。著書に『福祉と贈与―全身性障害者・新田勲と介護者たち』(生活書院、2013年)。論文に「障害(ハンデ)はゲームをワクワクさせる―身体に依拠したソーシャルワークのために」(『ソーシャルワーク研究』47[2]、2021年)など。

「こっちや」の聞こえる方へ

小森 はるか

 映画《そっちやない、こっちや―コミュニティ・ケアへの道―》の舞台は1970年代終わり頃、愛知県知多市のとある地域です。障害のある人たちが普通に暮らせる地域へと、コミュニティケア(地域福祉)の実現を目指す療育グループが立ち上がってからおよそ10年、月に一回、公民館を借りての活動を続けていました。今まで孤立していた人たちにも、段々と仲間ができていった頃、柳澤壽男監督たちがカメラを持って、仲間に加わりました。

 カメラが回り始めると、最初は単純作業が中心だった療育活動が、祭りへの参加や、個別の職業訓練などにも広がっていきました。しかし、グループ内で摩擦が生じ、その上に市の福祉センター建設が先延ばしになる問題が降り掛かります。もう公民館のお世話になってばかりはいられない、ならば自分たちの手で施設を作ろうと、空き家になっていた寄宿舎を改造する新しい拠点計画が始まるのです。そこからはメンバーも地域の人たちも映画スタッフも、一体となって物事を好転させていきます。設計図を描くところから「どうする?」と問われるのはメンバー自身。今まで見ていた彼らとは明らかに違う顔つきで、目を輝かせます。改造工事も自分たちの手で行いました。それぞれの興味や得意分野が、共同作業の中で見出され、存分に発揮されていきます。一見作業をしてないように見えるメンバーも、彼なりの働き方で参加しているのを映画スタッフは見逃しません。変わっていく現場を写せば、映画も活き活きとしていきます。身体を動かし、知恵を出し合い、理想の施設「ポパイの家」を本当に立ち上げてしまいました。

 私はこの映画を初めて観た時、そんなことを成し遂げた人たちがいたのだという事実にまず驚きました。しかし映画《そっちやない、こっちや》の魅力は、ポパイの家誕生の物語だけではありません。メンバーの一人ひとりが、人として魅力的なのです。なんでこんなに働き者なのか。広い心を持っているのか。それを映画で伝えられるのはどうしてなのか、と感動が尽きません。

 柳澤監督は、ラッシュフィルムを被写体となった人たちに見せながら作っていく映画制作を、福祉の現場から発見しました。映画が完成して観客に届く未来を期待する前に、カメラを向けられた人たちの目にどう映るのかを知ろうとしたのです。フィルムに記録された現実から、撮る側も撮られる側も、互いに気付き合う。気付いたことが現場を変え、またその様子を記録する。そんな映画制作を「行って来いの関係」と柳澤監督は名付けました。撮る側・撮られる側の関係を一方向のものにしないだけでなく、ケアをする側・される側の関係を変えていく狙いも含まれています。日頃からよく知っているはずのその人の素顔が、フィルムを通してはじめて見えてくる。ただ鑑賞するための「観る」ではなく、自分自身の目で発見するという経験によって、人は考え始め、相談し合い、行動するのだと教えてくれます。メンバーの魅力を映画の面白さに変えていけるのは、そういう作り方をしてきたからでもあるのです。

 ドキュメンタリー映画を作る上で、被写体や現場にどこまで関与するべきか、考え方は作品それぞれです。例えば撮影している時に作業を手伝うのか、ご飯を一緒に食べるのか、そんな判断も何が写されていくのかに大きく関わっていきます。柳澤監督たちは撮影の中での気付きを現場に投じていくだけでなく、時には作業を手伝い、時には知多市への質問状を提出するなど、コミュニティケアの運動にも惜しみなく力を注ぎました。しかし、「行って来い」とは共同作業の関係性を築くこととはおそらく違います。ラッシュをみんなで見て議論しながら作るという方法論の実践でもありません。それらは結果に過ぎないように感じました。障害者と括られて見えていない、ただ一人のひとを見つめるために、あるいはその声を聞くために、関わり方を固定しない映画制作を意味しているのではないかと私は思いました。

 福祉映画を作り始める前の柳澤監督は、記録映画やPR映画などを数多く手掛けていました。だからプロとして、ラッシュをスタッフ以外に見せることには躊躇する思いがあったと正直に語っています。福祉映画第一作となる《夜明け前の子どもたち》の撮影中、施設の先生や看護師さんたちからの「記録を見たい」の一言が監督を変えたのでした。「映画監督は恥をかくのも仕事のうちだ」と踏み切りました。その後も、見せることや参加することが映画の目的にならない理由は、ここにあるように感じます。柳澤監督自身がこれまでに培った制作現場の常識や、監督という権威的な立場を自ら疑うようになりました。そして、カメラの向こう側からの問いに絶えず応えようとします。それが柳澤監督の映画づくりの本質ではないでしょうか。福祉映画四作目となる《そっちやない、こっちや》は、そっち=障害者を隔離するところ(施設)ではなく、こっち=差別のない広い場所(地域)へ、を意味するタイトルですが、「行って来い」とも結びつく、監督の道理を感じさせます。私は観客や社会に対する呼びかけだと捉えていましたが、カメラの向こうにいる人たちから監督へ「こっちや」と呼びかけられている声にも思えてきました。

 街の風景の中をメンバーが歩いていくショットはどれも好きです。彼・彼女を撮るために相応しい街の写し方があるのだと思えて、こういうシーンから「こっちや」が聞こえてくる気がしてなりません。例えば、カヨちゃんという女性が水子地蔵へお参りに行くシーン。いつも通っているであろう坂道は、抜けに見える海がとてもきれいな場所です。そこを篠竹を持ってふらりと歩いていくカヨちゃんのかっこよさ。何百体ものお地蔵さんを一つずつ拝む、彼女の日課にぴったりとしか言いようのない風景なのです。また、乳母車に乗せられたヨウスケくんを、他のメンバーたちが自宅まで送り届けるシーンも好きです。交通量の多い道で、車道にはみ出して歩く彼らの真後ろには、トラックが追い越そうと迫ってきます。なのに振り向きもせず自分たちのペースで歩いている。それも楽しげな様子で、あぁいい街だなと思うのです。カメラは彼らを追いかけながら、光や植物たちも写し込んでいきます。ただ街中に居る、というシーンにならないのは、自らの意志で何かをしている姿として映る位置にカメラを構えているからです。その姿があるからこの風景を美しいと思える、そういう説得力を持って、完璧な構図、また手持ちのカメラワークでワンショットの中に収められています。シナリオや撮影の都合を優先しない作り方を選びながらも、映画を信じてきた人たちならではの成せる技です。画に説得力があるのは、一人ひとりとどう付き合ってきたか、写ってはいない時間も見えてくるからでしょう。このフィルムを目にした、療育グループや地域の人たちは、観察記録としてではなく、映像の放つ美しさから発見することもたくさんあったのではないかと想像します。

 一人ひとりの発見が作用しあって映画が成り立っている。どの場面も奇跡的な瞬間に見えて、私にとって《そっちやない、こっちや》は忘れられない映画体験となりました。しかしなんで奇跡のように思うのかにも疑問を抱きました。過去の出来事を見ているというよりも、「ポパイの家」や、街の中に居る彼らは、この現実とは違う世界に存在しているような気がするのです。違う世界を立ち上げられるのは映画表現の力でもありますが、それは私にとって身近な光景ではないからでもあるのだと思いました。いままで地域に施設がなくても、普通にあったはずの障害のある人たちの居場所。存在していたのに、いつの間にか消えてしまった風景としても私の目には新鮮に映るのです。この映画から「こっち」はいまどこにあるのかと、問われている気がします。それと同じように、柳澤監督が実践してきた「行って来い」の映画づくりを、いま新鮮に感じる人は私だけではないはずです。

 最後に、私が柳澤壽男監督を知ることができたのは、小林茂監督のおかげでした。小林監督にとって初めての現場が《そっちやない、こっちや》のスチール担当、柳澤監督との仕事であり、後にキャメラマンを務めた《阿賀に生きる》(監督:佐藤真/1992年)を制作する上でも、その経験が活かされたとお聞きしています。「ひとつのシーンで言いたいことはひとつ、ひとつの映画で言いたいことはひとつ」。小林監督に教わった言葉であり、柳澤監督の言葉です。私は制作で行き詰まる度に思い出し、助けられています。「ひとつ」って何を写すことになるのか、答えが出ていないのに、この言葉はなぜか肩の力を抜いてくれるのです。映画を観返していたら、「行って来い」の関係から導き出された「ひとつ」は、「ひとり」を見つめる眼差しにも通じているのかなと、思うようになりました。

参考文献:岡田秀則・浦辻宏昌編著『そっちやない、こっちや―映画監督・柳澤壽男監督の世界』新宿書房、2018年。

こもり はるか/映像作家
1989年、静岡出身。(一社)NOOK。2011年以降、岩手県陸前高田市や東北各地で、人々の語りと風景の記録から作品制作を続ける。劇場公開作に《息の跡》(2016年)、《空に聞く》(2018年)、《二重のまち/交代地のうたを編む》(2019年/小森はるか+瀬尾夏美)がある。新潟市在住。

闘争と創造について——《養護学校はあかんねん! ’ 79.1.26-31 文部省糾弾連続闘争より》を見て

吉田 晶子

 養護学校義務化が実施された1979年4月から20年後、1999年4月に「学校教育法等の一部を改正する法律」が施行され、公立中高一貫教育校が発足することとなった。中高一貫教育という新たな選択肢が加えられ、よりその子に合わせた教育環境を選べるようになる、という触れ込みだった。文部科学省は、受験エリート校を作るためではない、また受験競争の低年齢化を助長してはならない、として、公立中高一貫校は学力試験による選抜は行わないものとした。そのため、公立中高一貫校では学力試験ではなく「適性検査」が入試選抜に用いられることとなった。私が以前勤めていた学習塾では地元の中高一貫校に合格するための「適性検査対策」が目玉商品となっていた。それは紛れもない学力試験だった。「適性検査」対策講座に参加する小学生の数は年々増えていった。その一方で、中高一貫ではない「普通中学校」はひどく荒れていった。常にどこかで学級崩壊が起こり、今のクラスでは授業がまともに受けられない、塾にも通えない子達はさらに大変な状況だ、と生徒達から聞いていた。塾講師達もまた、非正規雇用という不安定な立場を「選び」、壇上に立つ経営者から「代わりはいくらでもいるんですよ」という言葉を日々浴びせられていた。
 《養護学校はあかんねん! ’79.1.26-31文部省糾弾連続闘争より》で語られる、学校教育はエリートを志向し、選抜と隔離を行っていくだろうという予測は、私が勤務していた学習塾で肌身に感じていたものだった。
 映画の中で心身めいっぱいに表現される養護学校義務化阻止――それは養護学校か普通学校かを選ぶ権利を与えてほしい、というものではなかった。差別の無い社会を創るという、全ての者に開かれた運動だった。
 それは、脳性麻痺者の運動団体である「青い芝の会」の行動宣言の一つ、「われらは問題解決の路を選ばない」を想起させた。

われらは安易に問題の解決を図ろうとすることがいかに危険な妥協への出発であるか、身をもって知ってきた。われらは、次々と問題提起を行なうことのみがわれらの行いうる行動であると信じ、且つ行動する(横田弘『障害者殺しの思想【増補新装版】』現代書館、2015年)。

 行動宣言は、1970年に重度心身障害児が母親によって殺害された事件に対する運動の中から生まれてきたものである。同著の中で横田弘は書く。「「障害者エゴイズム」と私たちを抹殺の対象としている「健全者エゴイズム」との闘争こそ、私たちを自己解放へと導くための手段となるのだと私は信じている」と。そこでは、「闘争」には「ふれあい」とルビが振られている。

 映画の中で「養護学校はあかん!」と訴える人々は皆、「ふれあい」に向かって開かれている。ずらりと並び、まともに応えようとしない役人達に身を乗り出し、語りかけ続ける。子供達が共に認め合い育っていくことへの思いを、指に煙草を挟み手話を用いながら、その場にいる人間全てに向けて、表情豊かに話す。一人が湯気の立つ食べ物を箸で運び、もう一人が口を開けて受けとめる。一人一人の表情や身振り、言葉を通過し、映画の終盤で須田雅之さんが話す「ケンカしながら生きてゆきたい」「自分の人生はケンカで終わるだろう」という言葉はより一層、「闘争」の活字に振られたルビと同等の明るさを帯びる。
 学習塾で働いていたとき、「社会」は「会社」の意味で使われていた。「適性検査」に頻出の語句として「バリアフリー」「ノーマライゼーション」が紹介されながら、「社会で必要とされる人となりなさい」という言葉がかけられていた。
 2年前に転職し、現在は精神科病院で精神保健福祉士として働いている。今の職場で「社会」という言葉は、「病院の外」の意味で使われることが多い。精神障害者の歴史は、隔離の歴史である。家に閉じ込める私宅監置、それから精神科病院への入院へと移るが、現在では「地域社会で生きる」ことが重要だとされている。そのはずだが、「地域社会」で生きているはずの私達はなぜ、障害者と関わりを持っていないのだろうか。
 精神保健福祉士の資格をとるための研修を受けたとき、実習先の精神科病院と就労継続支援事業所それぞれで、初日に、実習担当者の職員からまったく同じことを言われた。

怖くないの?

担当者達は、私が、病院の患者達、作業所の利用者達の中に入っていき自己紹介する様子を「あんまり見ないこと」と言った。「普通、研修生は戸惑ってなかなか入っていけない」ということだった。それほど、健常者とされる人達は、障害者とされる人達と交わる機会を持たない、ということだった。精神科病院で働き出して、在宅の障害者に対して、訪問看護、ヘルパー、作業所など、日常生活が医療福祉従事者で固められた「行き届いた支援計画」を目の当たりにした。手厚い福祉サービスで生活が支えられている、とも言えるのだろうが、あたかも「障害者と関わる人間」というのがあらかじめ職業として決められており、その範囲で「安定して生活すること」を障害者は選ばされているように思えた。同時に、健常者とされる者達は、限界に向け労働することを選ばされている。私達は、全ての人間が共に生きる社会をまだ手にしていない。
 我が子を養護学校に入れることを望んだ保護者達も、養護学校の意義を積極的に支持した教師たちも、その選択には切実な思いが伴っていただろう。目の前の子供達がこの社会で生きていくために何が必要か、と苦悩したはずだ。しかし人間を差別する「社会」は変えられないものだという前提に立つならば、その思いや苦悩は差別社会に組み込まれ、子供達を無力なものにし、見えない場所へ追いやってしまう。
 全ての人間が共に生きる社会を求める「養護学校はあかん!」は、そういったものと決別する力強い訴えである。映画の中である人は「トイレぐらい行かせてくれ」と、目の前の役人に当たり前の要求をし、またある人は自分の経験と実感と共に「教育とは、人間が人間として、本当に、みんなと共に生きぬく、と教える場」と表現する。「義務化阻止」の訴えは文科省のみに留まらず、また妥協案にも留まらず、私達全てに開かれる。彼らはその表現をもって、私達が共に何をなすべきかを教える。差別によって維持される社会を変えるために、それぞれの生を共に全うする。全ての人間にはその力がある。映画の中で訴える荒木義昭さんの表現に、私は自分がいかに特定の言葉の速度やリズムに慣れきっているかを思った。荒木さんは身を捩り、一語一語を振り絞る。言葉を口元へ上らせようとする荒木さんの表情、そして次の言葉が出てくるまでの時間と共に、荒木さんの言葉を待つ人々の顔が映される。映画は、荒木さんの表現を「健常者」の速度やリズムに合わせはしない。見る側も、言葉と言葉の間の張り詰めた時間を含めて、映画の中の人々と一緒に、荒木さんの表現を共有する。映画は、私達は共に変わっていけるのだと教える。
 《養護学校はあかんねん!》に登場する人々の訴えは、福祉制度を変えるだけで応えられるものではない。人間のあり方を根底から問い直す、とんでもなく大がかりな仕事を始めることになるだろう。決して、普通学校に入って行く障害児達や保護者達だけの仕事ではない。彼らと同じクラスになる健常児達、教師達だけの仕事でもない。人間の仕事だから、全員の仕事だ。それこそ、全員でとりかからなければ意味がないし、全員にとりかかる責任があるし、全員にそれをやれる力がある。私達には、自分を越えるものを共につくりだす喜びが備わっていることを、本当はみんな知っているはずだ。

よしだ あきこ/精神科病院相談員
発表した文章に「看護師たちの隣で」(『思想運動』1083号)、「ぶ厚い手紙」(『思想運動』1074号)、時評「三人論潮」(『週刊読書人』2021年連載、板倉善之・佐藤零郎・吉田晶子)など。

第24回中之島映像劇場
ケアする映画をたどる 配布資料

編集
田中晋平(国立国際美術館客員研究員)
 
編集補助
湯佐明子(同研究補佐員)
檜山真有(同研究補佐員)
藤井泉(同研究補佐員)

執筆
北小路隆志
加藤治代
深田耕一郎
小森はるか
吉田晶子
田中晋平

発行
国立国際美術館
530-0005
大阪市北区中之島4-2-55
06-6447-4680(代)
https://www.nmao.go.jp

発行日
2023年3月18日

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