国立国際美術館

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第4回中之島映像劇場 限定と豊穣—マイケル・スノウの実験映像—

映像とは何でしょうか? そして、映像を体験するとは?
「中之島映像劇場」の第4回では、これらの問いかけに対しての究極的な答えの1つと考えられる、カナダの作家、マイケル・スノウの作品を通して、映像やその体験の意味を明らかにしたいと考えます。
1960年代後半から70年代にかけて制作された一連の重要な映像作品があります。それらは、アメリカの批評家、P・A・シトニーが「構造映画」と呼んだもの、つまり、「一貫してその形式を追求し、内容は最小限にとどまり、その外観は二次的」なものに、大きく重なり合うものです。それらの作品群は、直接答える意図があったかどうかは別にして、上記の問いかけに対して、問題点をしぼった形で回答を導き出そうとしていたと評価できます。
現在の眼から見れば、シトニーの規定した作品群はフォーマリズム的映像と考えてよいでしょうが、それだけでなく、同時代の概念芸術やミニマル・アートと共有する志向性を持っていたとも理解されます。事情が複雑なのですが、フォーマリズムであり、また、それへの反抗でもあったというわけです。シトニーは内容の最小限さに着目しましたが、換言すれば作品の主題やコンセプト、あるいは技法の限定となります(したがって、繰り返しが頻出する、などの結果をもたらします)。
注目すべきなのは、こうした縮減や限定の結果、作品が貧しくなるのではなく、(シトニーが「外観が二次的」としたのにもかかわらず)むしろ逆に作品が研ぎすまされ、深まり、豊かさが生じているという点です。
今回上演するマイケル・スノウの2作品の場合、カメラの位置や運動の基軸が限定され、さらに、写されるもの(被写体)もわずかなものに絞られています(部屋の中や山岳地帯)。しかし、私たちはこれらの映像を堪能します。それは単なる視覚に留まらず、「全身全霊」で「見る」体験であり、そこで得られるものこそ運動と時間の豊穣なのです。
普段は見ることがなかなかできない実験的な作品から、映像やその体験の意味をつかんでいただくとともに、「美術と映像」の問題にも眼を向けていただきたいと思います。

主催
国立国際美術館
協賛
(財)ダイキン工業現代美術振興財団
協力
Canadian Filmmakers Distribution Center (CFMDC)
開催日
2012年10月27日(土)、28日(日)

Aプログラム

  • 《波長》(1967年)

Bプログラム

  • 《中央地帯》(1971年)

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