会期:1979年10月6日~12月2日
本展の構成は、明治以降のイタリア美術の受容史に従って、大きく三部に分けられている。日本人作家のイタリア経験は、まず1876年(明治9)に溯る。この年に開校した工部美術学校に、フォンタネージ、ラグーザ、カッペレッティらが教師に招かれ、その下から浅井忠、大態氏広らが育っていく。つぎの大正期は、1909年(明治12)のマリネッティ起草の宣言にはじまる未来派の影響である。ここではボッチョー二の彫刻や、東郷青児の在欧作《歩く女》などが出品されている。しかしこの明治、大正の二期の交流史はすでに紹介される機会が多かったので、今回は参考展示程度におさめ、中心は、戦後から今日にかけての現代美術の交流の展望におかれることになった。
ここでは展覧会の副題とした「作家の交流をめぐって」日本側20名、イタリア側34名が取り上げられているが、めまぐるしく展開し、多極化する戦後美術の中でのその交流の内容は、とうてい一つの視点からまとめおおせるといった性格のものではない。時代の流れと交友関係の実質とを合せて考えながら、展示にはいくつかの傾向分けを設けた。
まず、第二次ルネサンスともいわれるイタリアの具象彫刻の巨匠たちの仕事である。50年代後半からさかんに日本に紹介されはじめたマリー二、マンズー、ファッツィー二らの作品は、たちまち若い彫刻家たちを虜にし、吾妻兼治郎、豊福知徳らをつぎつぎイタリアへ送り込むことになる。この傾向は60年代の終りに渡伊した山本正道を経て、今日にいたるまで続いており、日本の具象彫刻は、かなりの部分において未だにその影響下にあると言ってよい。つづいて、フォンタナ、カポグロッシらの空間派の衝撃が鋭く日本に伝わってくる。それに平行するように、ミラノの吾妻、豊福らは抽象へ向かい、阿部展也や保田春彦、高橋秀も、ローマで、有機的なフォルムへ、あるいは幾何学的な構成へと自らの資質を見きわめて行くのである。師弟関係からはまた、フレスコ技法におけるサエッティと絹谷幸二、陶芸のザウリと里中英人の名を挙げておかなければならない。70年代の後半にかけては、アルテ・ポーヴェラの運動以降のメルツ、パオリー二、さらにファブロ、トロッタ、長沢英俊らのグループ「アプティコ」などの先鋭な制作活動を取り上げた。
具体的な交流の事実を踏えたこのような作家の選択と同時に、本展を構成するもう一つの視点は、ひるがえってイタリアの現代の側に身を置くと、美術史における20世紀がはたしてどのようなパースペクティヴで浮かび上がってくるか、ということであった。日本の近代、現代美術によって、交流史(ないし受容史)の主舞台は、なんといってもフランス、アメリカである。近代への展望や戦後美術の多極化の系統樹の作成もまたパリ=ニューヨーク型の立場からなされてきたといえるが、それに対して、この自信に満ちたイタリアの現代はどのような視点を用意しているのであろうか。
日本との関係ではさほど具体的な事実を指摘しえない彫刻家、メダルド・ロッソの19世紀末の作品を加えたのは、そのような期待からである。「アプティコ」のメンバーの一人である美術史家イオレ・デ・サンナは、本展のカタログに寄せた年表形式の解説で、このロッソを起点に、キリコ、フォンタナ、メロッティから70年代までをつらぬく一つのシャープな直線的な流れを描き出している。ロダンやブランクーシとパリで交ったロッソは、前者の大仰なフォルム、饒舌なマチエールを整理し、色彩、材質、空間を均衡させ、静かに充足するマッスをもたらしたことで後者を導いたとされている。形而上学的絵画から、さらに絵画の原点を求めて、古典美術を技法的に探索し、バロック的ともいえる重い写実にたどりついたキリコ。今回はローマ国立近代美術館から、その時期の「自画像」が出品されている。マンゾー二。イタリアにおけるダダの後継者ともいうべき彼は、短い生涯に、純粋で強烈な実験精神をつらぬく。メロッティもまたわが国では紹介されたことのない彫刻家だが、やさしくナイーブな感性によって、音楽的な響きをみせる空間を構成している。このようなタテの線で出品作を割り切ることは必ずしも本展の意図するところではないが、とかく巨匠彫刻家たちのイメージが先に立ちがちな、イタリア美術像のかたよりを補う意味からも、注目されてよい観点ではあろう。