地獄絵・福沢一郎の世界

会期:1978年4月15日~6月18日

この展覧会は、日本におけるシュルレアリスムの先駆として知られている福沢一郎の地獄絵シリーズの全貌を紹介するものであった。
福沢一郎は東京帝国大学文学部に通学するかたわら朝倉文夫に彫刻を学んでいたが、造形芸術の神髄を極めようと1924年エコール・ド・パリ全盛期のフランスへ渡った。そこで、デ・キリコ、エルンストらの表現方法から強い暗示を受けて画家に転じ、以後シュルレアリスムの思考方法に基づいた作風へと向っていくことになる。1930年独立美術協会の結成に参画し、世相を諷刺した作品を多く描くようになった。シュルレアリスムの理論を駆使し、絵画によって自らの思想を世に訴えつづけるヒューマンで且つ強靱な精神力は、日本の画壇の体質には極めて異色の存在となった。福沢一郎の作品には、常に現実批判の意識がもり込まれており、地獄絵シリーズもまたその意識の到達点そあった。第二次世界大戦後、「ダンテの神曲・地獄篇による幻想」という一連の地獄絵を描いた福沢は、1970年頃あらたな構想をもって地獄絵シリーズを発表し、平俗に走ろうとする美術界に衝撃を与えたのであった。
人の心のなかに地獄というイメージが恐怖と嫌悪をともないつつ醸成されていったのは、洋の東西を問わず同じであった。幾多の宗教や文学のなかで地獄の諸相が論じられ、西洋美術のテーマとなり、また、日本の絵巻に描かれた。文明が進んだ今日でも、人間のイメージとしての地獄の世界は各人の心の中に生きつづけているのである。こうした西洋の地獄、東洋の地獄および現代の地獄を描いた福沢の地獄絵を本展ではそれぞれ4階、3階、2階の展示場に配置した。
まず西洋の地獄の概念はイタリア最大の詩人とされるダンテの『神曲・地獄篇』から採っている。「ダンテ暗闇の森へ」(1971年)、「地獄門(左)」(1971年)、「地獄門(右)」(1971年)、「ステュクスの沼と憤怒者の群れ」(1973年)、「ディーテの門を押しわけて入る天使」(1974年)、「なげきの市(Ⅰ)」(1974年)、「ネッソの背に乗るダンテ及びヴィルジリオ」(1971年)など『神曲・地獄篇』のテーマである人間の魂の浄化と愛との問題が150号の連作に描かれている。また、東洋の地獄の概念を平安時代の比叡山の学僧源信の『往生要集』から取材している。『往生要集』の等活、黒縄、衆合、叫喚、大叫喚、焦熱、大焦熱、無間の八大地獄を詳細に描写し、人間を救い難い劣性の生きものとしてとりあげている。《銅釜地獄》(1972年)、《衆合地獄 樹上の美人亡者を誘惑する》(1972年)、《雨炎火石地獄》(1972年)、《焦熱地獄》(1972年)など原典にそくした作品がある一方、《昼寝する餓鬼》(1972年)、《餓鬼の大集合》(1973年)など福沢のヒューマンな面をかいまみさせる地獄も描いている。
『石田瑞麿さんなどの仏教学者は、西洋の地獄は客観的で、日本の地獄は、主体性が強いというふうにいっておられます。確かに、そういうことがいえると思います。ダンテが地獄へ行っても、地獄を客観的に観察しています。それに対して日本の方では、地獄は自分の心のうちにもあるんだと、主体的に考えようとするところがあります。』これは、西と東の地獄を絵画化しようとした福沢の言葉である。
その作風は『神曲・地獄篇』と『往生要集』の東西の地獄から転じて、作者みずからの中にえがいた現代の地獄へと展開していく。美術における反逆的理論に共鳴し、シュルレアリスム的発想を主体としてきた福沢芸術にとって、そのシャープな表現法として、諷刺が色濃く加わるが、これらの諸作は現代を地獄にみたてた痛烈な現代諷刺画となって展開された。
《政治家地獄 派閥》(1973年)、《政治家地獄 大企業と癒着の現象》(1973年)、《政治家地獄 ザル法まかり通る》(1973年)、《ポルノ地獄》(1972年)、《トイレットペーパー地獄》(1974年)など、1970年代の日本の政治、思想、社会の問題をとりあげ、頽廃と堕落のうずまく暗黒の世界を現代地獄として諷刺した。それは、敗戦直後の混乱期に描かれた群像図と同様に、現実の象徴であり、また、人間存在の実相をとらえているといえよう。

  • 入場者:総数16,726人(1日平均299人)
  • 主催:国立国際美術館
  • カタログ:「地獄絵・福沢一郎の世界」
    26×21cm/84ページ/カラー8ページ/白黒36ページ
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