国立国際美術館

HOME リサーチ&アーカイブ 中之島映像劇場アーカイブ 第23回中之島映像劇場 「光の布置——前田真二郎レトロスペクティブ——

第23回中之島映像劇場
「光の布置——前田真二郎レトロスペクティブ——

2022年11月12日(土)・13日(日)

主催:国立国際美術館
協賛:ダイキン工業現代美術振興財団
国立国際美術館地下1階講堂 参加無料・各プログラム入れ替え制 要事前予約(先着50名)

2022年11月12日(土)
10:30- Aプログラム※
13:30- Bプログラム
15:10- Cプログラム
17:40- Dプログラム

2022年11月13日(日)
11:00- Eプログラム※
13:00- Fプログラム
15:30- Gプログラム 終了後・アフタートーク 前田真二郎

※冒頭に担当者による解説を行います。

 第23回中之島映像劇場では、映像作家・前田真二郎(1969年生)のレトロスペクティブを開催します。前田は、1990年代初頭にイメージフォーラム・フェスティバルの作品公募に入賞、その後、実験映像やドキュメンタリー、メディアアートの枠を横断する、パーソナルな映像表現の可能性を開拓していきました。また、他領域のアーティストとの共同制作、展覧会の企画にも携わり、映像レーベルSOL CHORDを立ち上げるなど、新たな作品の流通・発表方法も探求していきます。そして、2008年から現在まで続いている「BETWEEN YESTERDAY & TOMORROW」と「日々“hibi” AUG」のシリーズでは、一定のルールを設けるかたちで、映像による日常のドキュメントを制作・発表してきました。これらの作品は、国際映画祭などでも上映され、プロジェクトとして複数の展開をみせており、大きな注目を浴びています。
 今回の中之島映像劇場では、最初期のビデオアートから2022年夏に撮影された最新作まで、多方向へ散りばめられるように展開された前田の作品群の布置を浮かび上がらせます。「布置(constellation)」は、特別なルール設定に基づき、撮影した映像や録音された声を再構成していく前田の制作方法にも重なるキーワードであり、目指すべき映像表現に通じる概念として作者が語っている言葉です。過去の記憶と現在、未来の予感を縫い合わせるその方法とイメージの力で、鑑賞者の思考と感覚を揺さぶってきた前田真二郎の軌跡に迫りたいと思います。
 また、今回の特集上映のために作成された本配布資料には、前田のキャリアと映像作品、プロジェクトを再考するため、下記の方々に解説を寄せていただきました。山形国際ドキュメンタリー映画祭でプログラム・コーディネーターをつとめてこられた加藤初代氏には、即興映画としての「hibi」「BYT」シリーズの作品がもつ特質を探っていただき、鑑賞者の自由な受容や解釈を促す、その可能性について論じていただきました。大学院時代の前田の後輩であり、自身も映像インスタレーション作品などを発表する林ケイタ氏には、Bプログラムで上映される初期作品を中心に、当時のビデオノイズによる表現と前田の師の一人である松本俊夫との関係などについて、貴重な証言を寄せていただきました。さらにIAMASで前田に師事し、これまで「休日映画」シリーズなどを発表してきた映像作家の齋藤正和氏には、教育の現場で前田の仕事に接してきた視点も踏まえ、領域横断的なその作家活動を紐解くエッセイを寄せていただいております。そして、IAMASの同僚でもある詩人の松井茂氏には、「BYT」シリーズにおける指示書の役割から、前田の作品を現在に至るアートヒストリー/アートシーンに接続する議論を展開していただきました。なお本上映会の企画者である国立国際美術館客員研究員の田中晋平も、上記の「布置」の概念を手がかりにして、前田の作品を読み解く一文を執筆しました。
 32年におよぶ前田真二郎の映像表現に迫る導きの糸として、本上映会および本配布資料が活用されることを願っております。

Aプログラム

  • 《日々 “hibi” 13 full moons》(SD-digital/2005年/96分)
    366日間、月の運行に従って日々15秒のカットをカメラ付きパソコンで撮影した即興映画。「hibi」シリーズの最初の作品。

Bプログラム

  • 《20》(VHS-video/1990年/5分)
    ビデオテープに寿命があるのを知り、あえて最初から劣化した質感の映像を作り出した。前田が20歳の時のデビュー作。
  • 《FORGET AND FORGIVE》(VHS-video/1991年/14分)
    3部構成によって、鑑賞者に記憶と忘却のプロセスを体感させる作品。「イメージフォーラム・フェスティバル1992」で受賞。
  • 《VIDEO SWIMMER IN BLUE》(VHS-video/1992年/12分)
    当時のテレビに実装されたブルースクリーンモードを、砂嵐=ノイズを隠蔽する機能として捉えることから発想された叙事詩。
  • 《TELEVISION BY VIDEO BY TELEVISION》(VHS-video/1993年/5分)
    テレビ番組終了後のサンドストームを素材に、ビデオ・フィードバックなどを活用することで、即興的に構成された映像作品。
  • 《L》(Hi-8 video/1995年/25分)
    字幕で示された手紙とそれを読む人物らの映像を通し、言語とイメージの関係、記憶と忘却などの主題が展開されていく。
  • 《Braille》(Hi-8 video/1996年/11分)
    19世紀フランスで、6つの点の組み合わせてアルファベットを表現した、点字発明者のルイ・ブライユを題材とした映像の実験。

Cプログラム

  • 《王様の子供》(DV, SD-digital→16mm/1998年/40分)製作:愛知芸術文化センター
    目を飾りで覆う子供たち、その複数の声が、ユートピアと外部の世界について語る。愛知芸術文化センターオリジナル映像作品。
  • 《オン》(DV, SD-digital/2000年/72分)
    隔てられた場所で生きる、言葉を発しない若者たちの日常が、鑑賞者の中で呼応するように重なり、映像世界を紡いでいく。

D/Fプログラム

  • 《日々”hibi” AUG》(FHD-digital/2008-2022年/120分)
    毎年8月、毎日15秒間の映像を撮影・構成した作品。2022年8月に撮影された映像は、今回の中之島映像劇場で初公開される。

Eプログラム

  • 《on2》(DV, SD-digital/2003年/5分)
    2000年に発表された《オン》のコンピューターを用いた自動編集によるリミックスバージョン。
  • 《中也を想い、サンボする》(DV, SD-digital/2006年/10分)製作:山口情報芸術センター[YCAM]
    中原中也の言葉をめぐるオムニバス企画のなかで、中也が遺した三篇の詩などからイマジネーションを広げていった。
  • 《Wedding 結縁》(DV, SD-digital/2007年/15分)製作:佐野画廊
    チベットの聖地であるチンプー渓谷で過ごした時間を映像化した作品。企画「7人の作家による映像」に参加して制作された。
  • 《星座》(FHD-digital/2009年/20分)製作:佐野画廊
    松本俊夫監修のオムニバス映画《見るということ》の一篇。三つの主題を設定し、撮影すべきものを見出しながら制作された。
  • 《GOLDEN TIME》(FHD-digital/2019年/8分)
    9チャンネル、27時間分のテレビ放送を録画した素材から制作された未公開短編。今回の中之島映像劇場が初公開となる。

Gプログラム

  • 《BETWEEN YESTERDAY & TOMORROW 2008-2022》(FHD-digital/2008-2022年/50分)
    1日目に明日の目的地についての語りを録音、2日目に撮影を行い、3日目に出来事について報告をするルールに従い、2008年から制作され続けてきたシリーズ作品。

イメージを手放す—— 「即興映画」についての覚書

加藤 初代

 2004年6月末頃のショット。チンという焼き上がり音と同時に簡易グリルの蓋を開けると焼き網の上には艶やかな焼き色に仕上がった干物が、ジュージューと音を立てている。このショットを見て、お腹が空いている私は美味しそうな匂いを想像し、できれば白米を盛った茶碗を持ってその場に駆けつけ、箸の先でそのぷっくりとした身をほぐして口に入れたいと欲望する。
 「インプロバイズド・シネマ(即興に作った映画)」と名付けられた《日々“hibi”13 full moons》は、毎日撮影した15秒のカットを、時系列に1年間つなげた作品である。撮影にはさらに厳密なルールが設けられており、月齢に準じ満月には深夜0時、半月には朝6時、新月には正午、次の半月には18時と、毎日撮影時間をずらしていくことで、完成した96分が、「なだらかに朝がきて昼になり、そして夜がくるというリズムを生み出」[1]すしかけになっている。このような時間の制約に加え、ノートパソコン内蔵カメラによって撮影した後、そのパソコンで前日までの映像に新しいカットをつなぐという制作スタイルは、その時その場の状況に応じて作る即興と言え、「インプロバイズド・シネマ」という名称は的を射ている。

「ゲームの規則」と偶然性

 このようにルールに従い即興で制作された本作について、前田は、「この作品は一見、“作者のプライベートな日記”といった印象があるかもし」れないが、むしろ「作者の意図を越えて多様な情報が残されていくという映像の特性に着目し」[2]たと言う。敢えて制作にルールを導入し不自由さを課すことで、結果的に作品に多様性が担保されているのである。このような制作スタイルは、サイコロを振るというシンプルなルールのもと数字の偶然が多様な結果を生み出すボードゲームのようでもある。本作の制作をゲームの予測不能な面白さになぞらえれば、前田は、制作工程を積極的に楽しみ豊かな作品を生み出すために、「ゲームの規則」を設けたと言ってもいいだろう。山形国際ドキュメンタリー映画祭2005で本作が上映された際、インタビューの中で前田は、日常生活の中で毎日の撮影が惰性に陥らず楽しめるような規則を課したことを明かしている。

 撮る時間帯が決まっていれば、その時だけ集中すればよいから、それなら可能かなと。そういうルールを設けようと思ったわけです。毎朝8時と決めるより、撮影する時間帯が変わっていくほうがおもしろいだろうと思って、月の満ち欠けを時間帯にあてはめることにしました[3]

 さらに、撮影時間帯の規則に、連日撮影後に決まった尺のカットをつなげていくという編集の規則を重ねることで、日々やり直しの効かない偶然の面白さが生まれる。また、ノートパソコンという機材の制約も然りである。毎日パソコンを持ち歩き、時間がきたら撮影しカットをつなぐなかで、「暗い所が撮れない」、「ズームがない」、「起動時間が遅い」といった問題が起こる。しかしむしろ、「慣れない道具を楽しむことにし」[4]たと前田は言う。技術的制約を偶然の面白さに昇華し生まれたものが、本作であるとも言える。このように本作は、自ら課した「ゲームの規則」により作家が作品への制御を手放したことで、多くの偶然により映像のもつ「多様な情報」という特性が引き出され、鑑賞者の自由な受容と解釈を可能にしているのである。

ずれの生み出す心地よい不安

 見る者の自由な受容とはどのようなものだろうか。冒頭のショットに戻ってみよう。ある日の食卓に上ると思しき焼き魚のショットは、例えば、鑑賞者の過去の記憶と即座に結びつき、即物的な欲望(食欲)を喚起するだろう。しかし、互いに連関のない規則的に連なる膨大なショットの流れを見終わり、暫くして振り返ると、焼き魚のショットは、何か別の像に変貌していることに気づくかもしれない。「チン」音、「ジュー」音、背景の暗色、金属のような硬質な網目、その上にあるつややかな茶色の物体。そのショットは果たしてジュージュー音を立てる焼き魚だったのだろうか?このようにショット(表象)と事物に生じたずれは、見る者の不安を掻き立てるに違いない。しかしその不安は、日常で見落としている何かを思い起こす契機になるはずだ。《日々“hibi”13 full moons》は、「鑑賞者それぞれの記憶を誘発するような作品を目指し」[5]ていると同時に、鑑賞者に記憶(イメージ)とその存在を疑わせ、さまざまな可能性を想起させる装置ともいえる。見る者は、不安を伴いつつ無限に思考する心地よさに身を委ねることができる。本作は、連日日記のように綴られるショットの連なりの中に、鑑賞者が時を意識しながら、同時に時の概念から解放されるような、思考の自由を喚起する企みに満ちているのである。

制約された1日を描く

 「BETWEEN YESTERDAY & TOMORROW」シリーズは、制作について前田自身が作った「指示書」をもとにした5分の「即興映画」[6]である。「指示書」によると、「1日目 明日撮影する場所とそこに行く理由について話す(録音)」、「2日目 現地で撮影する」、「3日目 昨日の出来事について話す(録音)」、「1日目と3日目に録音した音声を順番に並べてサウンドトラックを作成し、それをベースに2日目に撮影した映像を編集してください」[7]と、厳密な制作ルールが規定されている。制作日程の制約が大きくその場限りの即興的な制作が想定されていることがわかる。また、制作期間だけでなく、限られた撮影素材による編集において、音と画の構成にもルールが課されており、《日々“hibi”13 full moons》と同様、「ゲームの規則」が生み出す予期せぬ偶然性という長所を生かすことで、作者の意図を越えて映像が生成していく作品といえるだろう。
 この作品に関して、前田の企画者としての側面も注目される。前田は、2011年東日本大震災を機に、ウェブサイト上で作品制作を呼びかけるWebムービー・プロジェクトを立ち上げた[8]。このプロジェクトから生まれたオムニバス作品も、山形国際ドキュメンタリー映画祭をはじめ、国内外で上映されている。さらには、音楽家とのコラボレーションやインスタレーションなど、さまざまな表現形態で発表されており、複数の作家による即興映画の組み合わせから生まれる偶発的な映像(イメージ)が、見る者にさらに深淵で多様な思考を促す作品群となっている。

語りに抗ってみる

 さて、「企画書」の存在を知らずに作品をみた鑑賞者にとって、「BETWEEN YESTERDAY & TOMORROW」シリーズは日記風私的映画に見えるだろう。日付の記されたオープニングとエンディングのクレジットは、これが1日の記録であることを印象付ける。「TOKYO TOWER July 19, 2009」というオープニングタイトルに続き、東京都庁の映像が現れる。そこに、「青い東京タワーを見ています・・・明日、東京タワーに上ってみたいと思います」というモノローグが聞こえるが、おそらくほとんどの鑑賞者は、若干何かが違うと感じるものの、その語りが「都庁と森ビルにも上ってみたいと思います」と続くと、映像と言葉の整合性に安堵し、作家本人が高いビルに上ったある日の物語として5分間を見終えるだろう。本作は、日記のような素朴な語りの中に前日録音したナレーションを挿入することで小さな時制のずれが生じているのだが、そのずれはささやかなノイズとなり、見る者の記憶になんらかの痕跡を残しているはずだ。まるで、“あなたが見たものは、あなたが認識したものと同じですか?”と問いかけられているような。作家の何気ない訥々とした語りを疑い始めた時、画と音のずれのみならず、映像(イメージ)と事物の同一性もゆらぎ始めるに違いない。語りの誘惑に抗いイメージの差異に身を委ねた時、見る者は、本作に出会い直すことができるのだ。このような企みは、鑑賞者が時間を意識しつつ映像に出会い直すことに前田が重きを置いている一例と言えるのではないだろうか。

日々の政治性

 8月は、戦争による死者を想い悼む月であり、特別な意味を帯びている。《日々“hibi”AUG 2008-2022》は、《日々“hibi”13 full moons》の制作ルールに準じ、2008年から2022年にかけて毎年8月に撮影された映像で構成した作品である。本作には、選挙、総理大臣、放射能、戦争、兵役拒否、天皇、デモ、といった、個人の立ち位置を問うような言葉が散りばめられている。8月に作家の心に去来する何がしかの想念が、即興制作の偶然の中で言葉となって現れたのかもしれず、もしかしたら、作家の政治的メッセージが込められているのかもしれないと想像することもできる。しかし、毎日ワンカット15秒の連なりが緩やかに時を刻みながら連続していく、8月のありきたりな日々の映像(イメージ)は、一つの意味へと見る者を誘うより、むしろ、人は日常的に何かを選択して生きており、何かを選ぶことは意識せずとも結局は政治的な営みでもあることを、思い起こさせるだろう。そして、それらのイメージから何を想像し、日常の中でどのような行動を選ぶのかは、見る者の自由な選択に委ねられているのである。

 ここで紹介した3つのシリーズの作品は、すべて日記のような形式の作品である。前田は日記を、「人が生きる間のとらえどころのない“時間”を、周期的なリズムを刻むことで可視化させる試みと言え」[9]るとし、時間を意識させる記録形態として作品に生かしてきた。この前田の映像に対する姿勢から生まれたインプロバイズド・シネマは、結果的に多様な解釈が可能な、見る者に開かれたものとなっている。また、前田は映像作家としての個人の表現について、「既存の映像表現を成立させている制度を疑いながら、それに抵抗することかもしれ」[10]ないと述べている。これらの作品は、敢えてルールを課すことで、結果的に実写映像の記録性といった映像表現の制度を問い直し、作者の意図を越えた、作家自身にとっても開かれた作品となっていると言ってもよい。前田が、「規則による何かしらの制限下での撮影行為に、無意識を含む個性が顕在化すること」[11]
に期待しているように、これらの作品は、即興の偶然により顕在化したイメージに、作家、鑑賞者、それぞれが何かを見出し、何度でも新しく出会い直す可能性を秘めているのだ。
 うつろう映像(イメージ)に結びつく事物それ自体を捉えようと足掻きつつ、自由な思考に身を委ねることは、なんと魅力的なことだろう。そして、その都度何かを自分の手に掴めたようなささやかな体験の積み重ねは、より豊かに深く生の実感へと結びついていくに違いない。

  1. ^「sc-007日々 “hibi” 13 full moons/前田真二郎」、https://solchord.jp/sc007.html(2022年10月30日確認)。
  2. ^同上。
  3. ^前田真二郎監督インタビュー「偶然と必然のコンポジション」、http://www.yidff.jp/interviews/2005/05i115-2.html(2022年10月30日確認)。
  4. ^同上。
  5. ^「sc-007日々 “hibi” 13 full moons/前田真二郎」前掲サイト。
  6. ^「“BETWEEN YESTERDAY & TOMORROW”:企画について」 https://solchord.jp/byt/about.html(2022年10月30日確認)。
  7. ^「“BETWEEN YESTERDAY & TOMORROW”:指示書」https://solchord.jp/byt/instruction-sheet.html(2022年10月30日確認)。
  8. ^前田真二郎「2021年、“BYT”について」、https://maedashinjiro.jp/wp-content/uploads/SPUTNIK2021_04.pdf#page=8(2022年10月30日確認)。
  9. ^「教員インタビュー:前田真二郎教授」、https://www.iamas.ac.jp/report/interview-maeda-shinjiro/(2022年10月30日確認)。
  10. ^同上。
  11. ^前田真二郎「2021年、“BYT”について」前掲サイト。

かとう はつよ/映画祭プログラム・コーディネーター

90年代の“私”—— ダイアローグとプラクティス

林 ケイタ

 作品を生み出すために試行錯誤を繰り返し、それが長引きつつ突如閃きカタチとなる。しかし、果たしてそれが自分自身の中から本当に出て来たモノなのか?と疑問を抱くことがある。無意識に既存の作品を参照していた場合もある。私独自の発想だと疑いなく進み、それが具体的になるにつれ、何故か生み出した実感が薄れていくこともある。生み出すことを「私ではない何かに導かれること」と言えば、訝しく聞こえるが「私と何かが作用すること」と言い直せば、共感する作家やクリエイターは少なくないはずだ。
 映像作家・前田真二郎の初期作品に久しぶりに向き合うと、作家として生み出す“私”とは何なのか?という、根本的な問いを改めて突きつけられる気がする。それを探るために、90年代始めの少しの間、学生として彼と共に映像を専攻していた時代状況をトレースし、個人的記憶を辿りつつ、前田真二郎の初期作品のいくつかについて考えてみたい。

 1992年、私は京都精華大学大学院デザイン専攻の募集要項に映像作家・松本俊夫の名前を見つけ、即座に受験を決意し、翌年から通い始めた。私の担当教員は、ビデオアーティストの伊奈新祐、1年次に松本俊夫の必修授業が週1回設定されていた。同級生はたった1名のみ、そして、上級生3名の中に、前田真二郎がいた。
 毎年開催される、国内唯一と評価される実験映像祭、イメージフォーラム・フェスティバル(以下、IFF)にて、彼の入賞映像作品《FORGET AND FORGIVE》や《VIDEO SWIMMER IN BLUE》を既に見たことがあった。公募部門は毎年多数の応募があり(IFF1992の応募総数は459本)、今と同じく当時も学生でコンペインするにはかなり敷居が高かった。当方は友人と作った8mmフィルム習作が何とか一次審査を通過したのが精一杯、他大学を含む同窓たちも、そうやすやすとは入賞できず、力作ながら一次審査を突破できない作品も数多くあった。そんな中、2年連続(1992-1993)で入賞していた前田真二郎は、既に自立した映像作家の風格十分、松本俊夫の直弟子感も強く、学生のうちからIFFにて華々しくデビュー、新人映像作家として既に認められた存在であった。
 この頃、関西の美術系大学や専門学校で映像を専攻する学生は第2次ベビーブーム世代もあり数多かった。その中でも意識ある学生は大学間をかけ持つ教員や現代美術系ギャラリーに繋がりながら、京都市立芸術大学、京都工芸繊維大学、京都精華大学、京都芸術短期大学(現京都芸術大学)、大阪芸術大学、ビジュアルアーツ専門学校大阪、神戸芸術工科大学などとの相互交流や対話に積極的だった。例えば、教員や友人から〇〇大の〇〇の作品が凄い、などと聞けば、対抗意識の強い学生はその真偽を確かめるべく対決姿勢で作者に会いに行くようなこともあった。この頃この周辺の学生の多くは、常に大学に収まらない制作・発表活動に取り組んでいたし、芸短大や精華大を中心とした松本俊夫を敬愛する学生ネットワークはみなライバル、特に制作意識が高かった。前田真二郎が芸短大の松本門下の一人、原神玲(レイ・ハラカミ)と必然的に出会ったのもこの頃であり、すべてにウマがあった2人は蜜月的に時間を共有し、共作を創った。原神が才能溢れる音楽家としてデビューした後も前田作品のサウンドトラックを担当し、その関係は原神が惜しくも40歳の若さで他界するまで続いた。
 この時期のIFFのカタログを見てみると、当時のベテラン映像作家の名に加え、関西の若手としての寺嶋真理、河瀨直美、石橋義正、伊藤弘ら、現在の人気作家・クリエイターの名も見える。IFF以外の公募も多かった。映画監督の登竜門「ぴあフィルムフェスティバル」はもちろん、日本ビクター(現JVCケンウッド)主催の「東京ビデオフェスティバル」、賞金が高額の「ビデオポエム」の他、学生対象の「ふくい国際青年メディアアート・フェスティバル」、現代美術系の「キリンコンテンポラリー・アワード」やソニー・ミュージック・エンタテインメント主催の「アート・アーティスト・オーディション」など。このようにバブル経済絶頂期の企業メセナの勢いとその後数年の余波を受けた注目の公募展があったことが、学生間交流や異分野交流を盛んにする動力となっていた。映像を専攻する学生は、そこで現代美術志向の学生と結びつき、みなの入賞作品に触発され、学内課題作品や自主制作作品を頻繁に応募し、常に切磋琢磨していたように思う。そしてまた、80年代から続いていた、関西を中心に活動する〈ヴォワイアン・シネマテーク〉などベテラン作家による実験映像上映集団に影響された学生や若手作家は、自ら映像作品上映グループを立ち上げたり、また、公募展で知り合った現代美術志向の学生とコラボレーションを企て、挑戦的な作品を発表していた。とにかくギャラリーなど含め、学生の大学外発表に熱気が溢れていた。

 さて、ここで本題に入りたい。私個人の学生時代に戻り、大学院の松本俊夫(以下、松本先生)の特講を思い出してみたい。私はこの授業にこそ前田真二郎の映像作家としての原点があると思っている。私が受講した松本特講は1年次のみ、狭い大学院研究室で松本先生と同級生、計3名だけで週1回開講された。時々他学科の聴講希望者が紛れこんだり、前田真二郎が2年目ながらに飛び入り参加することも幾度かあった。松本先生の前には常に大きな灰皿があり、前田真二郎も私も、当時ヘビースモーカーだった松本先生と共に煙草をふかしながら参加する、そんなリラックスな時代でもあった。
 授業内容は特講と記されつつ、準備された講義を一方的に受けるわけではない。映像表現はもちろん、芸術全般に関わること、作品制作に関わること、個人的な質問など「何でも私にぶつけてこい!」という学生からの問題提起による完全対話型スタイルであり、これは何とも恐れ多かった。この時期、松本先生の著作や映画・映像作品をしらみ潰しに追いかけていた私にとって、なんと貴重でかけがえのない時間だったんだろう、と今また思う。
 この授業中、映像を含む現代芸術全般の問題を捉える上で、美術史や映画史以外にフランス現代思想の概念やキーワードがよく登場した。もちろん、私たち学生がそれらに関する鋭い問題提起ができるわけもない。ある作品についての素朴な疑問を投げかけた程度から、一気に現代思想の話に及ぶのだ。言語学から始まり、記号学や構造主義、そしてモダンからポストモダンへのパラダイムシフト、ジャック・デリダやドゥルーズ=ガタリの著作とキーワードが簡潔に要約される。他に現代思想に関する原書や訳書を読み込むような専門講読を受講した経験もなく、ゆえに不勉強な私にこれら難解な概念を正確に理解する力はなかったが、松本先生の解説する現代思想の考え方やキーワードは、私たちの作品制作の構想・設計の問題としてわかりやすく着地し、そこでその難解な概念やキーワードは不思議にも自身の身近な問題として突き刺さってくるのだ。
 ジャン=フランソワ・リオタールの『ポスト・モダンの条件』(1979年)という著作と概念もよく話題になっていた。ここに登場する「物語」という概念は、社会システムなどを対象とする広義な概念として定義されるが、文学や映像における狭義の「物語」と字義的にも通じ関連しているので、映像を新たに解釈する概念として文脈化され、実験的な「ニュー・ナラティブ」という最新キーワードにリンクされたり、また、特定の著作ではないが「ノイズ」という概念はいつでも主役だった。松本先生がよく口にしていたフレーズを思い出す。「西洋近代はノイズを覆い隠そうとする」、よって「表現にとってノイズこそ重要だ」「無駄で無意味な要素を省き続け、自立化・純粋化するモダニズムは、その過程において瞬間的に洗練化する時もあるが、それが続くとやはり最終的には痩せ細ってしまうのでダメだ。それは例えば純血思想に限界があるのと同じことなんだ!」云々。とても刺激的な時間だった。このような世界を読み解くトレーニングを週1回繰り返していると、徐々に小難しい考え方やキーワードもなるほど頭の中に吸収されてくる。作品に関する理解や判断も上手い下手、好き嫌いではなく、さまざまな思想的文脈と歴史的視点で捉えることが重要だと気づいてくる。

 そして私は、この時点でようやく前田真二郎の映像作品の軸をつかんだ、ような気がしたのだ。この1年前、同授業で松本先生との対話を繰り返したはずの前田真二郎が、その時間によって大きく影響され、制作コンセプトを支えられ、そして確信を得ていたことは、間違いない、と思う。もちろん、その他の幅広い経験や考えが紛れ込んでいるはずだが、時代に合わせ、新しい視点を提出する現代思想の基本的な考え方が、前田作品に大きく影響し、関係し合っていることは全く疑いない。例えば、「ノイズ」という問題は、前田真二郎の初期作品の重要な骨子であり、視覚的モチーフであることは誰がどう見ても明らかだろう。
  《20》という初期作品は、特定の機器に異常な映像信号を送り込み、自身のイメージを歪曲し変形させる「ノイズ」効果実験であるし、《FORGET AND FORGIVE》は水に流す=時間性に鮮明と不鮮明「ノイズ」が紛れ込んでくる映像と記憶の問題提起だし、この時期の代表作品である《VIDEO SWIMMER IN BLUE》は、当時のビデオデッキの一部がブルー画面で「ノイズ」を覆い隠すことを起点とした、沈んでいた「ノイズ」の物語としてブルー=イメージが浮上する叙事詩だ。低解像度、デッキという空間の中で磁性体テープが蛇行するビデオメディアの特性を炙り出し、ノイズカオスな美しさと脆く不確かな時間イメージが重なり、紡ぎ出される。これらコンセプトと映像の肌理はやはり、松本俊夫との充実した対話が影響していたはずだ。

 その後、大学院修了後に制作された《L》という作品がある。私は完成直後、1996年のIFFにて見た記憶がある。「私は光 私は言葉」「あなたは私を見ている」「この文字が私」というテロップで静かに始まる本作は、それまでサンドストームやビデオ・フィードバックや再撮影という技法をリズミカルに構成した前田スタイルとは全く異なり、文字とイメージが交互に呼応し合う概念的な作品だ。ここでの「私」は文字通り「光であり言葉」=映像それ自体が「私」という人称を背負っており、しかし被写体の人物や彼がレター=手紙を見つめる視線、あるいは光の根源である太陽、多くの「私=主体」が反転しながら溶け拡がっていくような、映像を見ることそれ自体を問いかける作品である。初見から約30年経ち、今回再び見てみると多くの興味深い発見があった。

 話はズレるが、1990年代前半、映像編集はまだテープからテープへ信号をコピーする方法だった。ビデオ映像はコピーを重ねると必ず劣化し、予期せぬノイズも入りやすい。編集は最短の工程を計画することが重要だった。機械音(テープ走行、機器の唸り、カセット出入)と共に、ブラウン管モニターを見続ける作業は、時間を操作しつつも、時間の感覚を失い、繰り返し再生によって敏感な視覚は鈍感になり、そしてその感覚は行き来する。つまり相反する感覚が交互に知覚されることが起こりやすい。すると、集中的に編集する者は「ビデオを見すぎて何が何だか…長いのか短いのか…今何もわからない」と嘆くことになる。私はこのテープによるビデオ編集を操作している時に起こる、分裂的な作業感覚が「私」という決定的な作者主体を揺るがすことに関係していたのではないか?と考えている。

 《L》に戻る。もちろん、これは前田真二郎によって事前にコンセプトが設計され、シナリオ・撮影・編集の作業工程が緻密に計画されたものに違いない。テープ編集によって制作されているが、編集機操作が彼の制作コンセプトに作用していると言うつもりもない。ただ「光であり言葉」という映像そのものが「私」として物語る構造、その主体が映像に関わる他の要素や環境に流動していく試みは、同時に作品の背後にいる「私=作者」をも無化してしまう印象を受ける。この作品は、映像が「私」となることで、映像メディアの「作品を生み出す“私”」と「作品を見る“あなた”」という基本的な関係を問い直し、その境界さえ消し去ってしまう。《L》を見ていると、語りかけられたり、見たり、見られたりする複数の「私」という主体が沈降し浮揚し、それを繰り返す奇妙な感覚にとらわれる。

 そう言えば、授業で問題提起をするために、私が思いきってロラン・バルトの「作者の死」(1967年)という概念を議題にだし、松本先生がそれに応答したことがある。バルトのそれは基本的にはテクスト論であるが、映像・映画に置き換えて考えても有効な部分が多い。創造する主体は死を迎え、言葉(映像)それ自体が主体となり語りかける(映し出す)。すると主体は読者(鑑賞者)に移っていく。「映像空間ではそれを制作した作者ではなく、それを読み解く鑑賞者こそが重要である。ここには作る側と見る側の関係が転覆する痛快さがある…」。この視点について考えていた後、《L》を見て、作者という絶対的存在に対する問い直しが《L》に深く関連し、通じているよう思った。

 もちろん、現代思想や哲学的概念が作品のすべてを支えるわけはない。松本先生も授業では難解なキーワードを勢い良く投げかけてくるが、自身の制作となると、綿密な計画はあれど実は理性よりも感性、特に無意識を重視している、と語っていた。「考える反面、何も考えないことも大事だ」と。そこはなるほどそうかと感覚的に理解はできた。
 大切なことは、神経を尖らせながら概念に向き合うことを契機に、対話(ダイアローグ)が充実し、それによって具体的な制作の実践(プラクティス)に向かうことだ。これが新しい視点を見つけだし、既存の表現世界を組み換えるための最良な手段であることは変わらないし、前田真二郎は既に作家としてそれを実装していた。

 そして「作家として生み出す“私”とは何なのか?」という命題は、決して古びることなく、世界情勢が緊張しているような今こそ真剣に考えたい。私たち世代の作家は、90年代に20代で吸収したダイアローグとプラクティスの経験を絶やさず継続し、実行していく必要があるだろう。そして、2000年代から現在に至っても、さらに未来に向かって生み出し続けていくであろう“私”=前田真二郎の映像作品には、浅かれ深かれ必ず、この最も基本的で本質的命題が刻み込まれているだろう。

はやし けいた/映像造形・設計・ディレクション

映像への多様なアプローチ—— 「前田真二郎」についての少しの覚書

齋藤 正和

 《オン》の登場人物は、話をすることはなく、ただ移動し行為する。そしてその姿は、独特の「光」とともに切り取られ積み重ねられていく。その「光」によって捉えられるのは、人物だけでなく、日常的なモノ、風景などもである。《オン》を鑑賞し、このような「光」とともに世界をみることができるという鮮烈な体験をしたのは、私が前田さんの学生だったときである。

 私は1999年にIAMAS(岐阜県立国際情報科学芸術アカデミー)に入学し、前田さんに師事した。そして、卒業のタイミングでIAMASに設置された大学院(情報科学芸術大学院大学)に進み、修士課程も指導していただいた。その後、助手、助教としてIAMASに所属していたこともあり、さまざまなプロジェクト、イベント、撮影で前田さんとご一緒させてもらった。そうしたこともあって、2000年代の前田さんの学校での研究指導や個人の制作を比較的近くで見ることができた。このテキストでは、プログラムで上映されている作品についてということから少し離れつつ、そのような私の位置からみえていた映像作家・前田真二郎の多様な制作の一端をご紹介できたらと思う。

 今回のプログラムに、《PROJECT OF SHEPHERD 2001 -TRANCE SHEEP-》、通称《羊飼いプロジェクト2001》を加えるかを最後まで悩まれたという話を伺った。「羊飼いプロジェクト」とは、美術家の井上信太さんが森や都市など公共空間に“羊”を描いたパネルを設置していくアートワークである。そしてその放牧のさまを、前田さんがアート・ドキュメンタリーとして映像に収めていくという形でのコラボレーションをお二人は継続しており、その1つである《羊飼いプロジェクト2001》は、中国、内蒙古においての「放牧」を記録した映像作品である。その映像は、広大な風景とともに、現地の市井の人の表情やリアクションをいきいきとスケッチ的に捉えており映像におけるリアリティが際立つものである。そして被写体のリアクションを捉えると同時に、異国の地において作家がどのように反応したのかという撮影者の身体性を記録するという意図を強く感じる作品である。実写映像の記録の対象にはカメラがとらえた事物だけでなく、なにをどのように「みた」のかという撮影者自身のまなざしや行為も含まれていて、《羊飼いプロジェクト2001》は実写映像のそのような特性やカメラという装置について意識させられる。撮影者の身体とともに敏速に動くこの作品の映像は、これまで《オン》などを通して私が前田作品に抱いていた絵画的で、そして静謐な光で空間を創造的に捉えるものとは大きく異なっており、新たな前田作品との出会いとなった。

 この「羊飼いプロジェクト」のシリーズには、IAMASの授業の一環である「HD 高精細画像によるコンテンツ制作プロジェクト」でその後関わる機会に恵まれた。この学内プロジェクトは、前田さんが研究代表を務め2006年から2009年にかけて実施され、私は研究分担者として関わった。当時のHD制作環境は、ハイビジョン記録が可能な民生用デジタルビデオカメラが発売されたり、ハイビジョン対応の大型ディスプレイも出回り始めるなど、試行錯誤しながらではあるが個人でもHD環境で映像を扱うことができるようになってきていた。そのようなSDからHDへの移行期によく聞かれた「ハイビジョン」の謳い文句は「高画質」であったが、このプロジェクトで目指されたのは、画像が高精細化することによって可能になるあらたな映像表現を制作をとおして探究することであった。映像表現と装置の関係を常に意識している前田さんらしいアプローチである。この学内プロジェクトの一つとして取り組まれたのが《羊飼いプロジェクト in 大垣》で、学生を含む10人程のチームを前田さんがまとめ制作された。前田さんは主役である井上さんと作品内容について打ち合わせを行い、現場ではモニターを確認して演出し、学生に指示を出し、さらには全体の進行、スケジュール管理も行うなど演出部と制作部を兼ねたようにすべてをこなされていた。前田さんとはライブ公演など記録撮影の現場は何度かご一緒してきたが、制作の現場において撮影チームをディレクションする姿をみたのは初めてだったように思う。この時まで映像作家の前田さんには「個人による制作」というイメージを持っていたが、このようにチームで映像制作する姿をその後も幾度かみた。このプロジェクトでは他にも、高精細映像におけるアニメーション表現、大画面ではなく携帯電話の小さなディスプレイに高密度に表示される映像、実寸大の映像表現、写真集を見るように映像を視聴することなど学生の研究の方向性を勘案しながら、あらたな映像表現の考究が試みられた。そしてこれらの取り組みは、プロジェクトの成果展である「再生される肌理 -digital images of contemporary art-」展(AD&A gallery、2008年)として発表された。この展覧会の企画者として前田さんが寄せた文章を以下に紹介する。

一昨年亡くなったビデオアートの始祖ナムジュン・パイクは、初期の活動において「コラージュ技法が油絵具にとってかわったように、ブラウン管がキャンバスにとってかわるだろう。」と述べています。映像表示技術が飛躍的に進歩している現在、改めてこの言説について考察するべきではないでしょうか。もはやディスプレイは一画素単位でイメージをコントロールできる支持体と言えるのかもしれません[註]

この文章からは当時の前田さんの技術的な問題意識とともに、自身の映像制作において絵画という表現が大きく意識されていることも感じる。

 この展覧会では「BETWEEN YESTERDAY & TOMORROW」シリーズ(以下「BYT」)のひとつ《SAWANO-IKE》が発表され、前田作品における絵画性を再確認させられた。この作品では、《羊飼いプロジェクト in 大垣》でも試行されていた高精細な画像を意識した大胆な構図の使用が推し進められ、その映像は絵画のような独自の時間感覚を有している。さらに、長いFIXショット、尺に対して少ないカット数、150インチ程度のスクリーンサイズでの上映であったことなどがその絵画的な印象を強めた。

 「BYT」は絵画性の他に、ルール・スコア・指示書といった前田作品に通底する制作方法が前景化された作品でもある。「ある一日を撮影、前日に声を録音、明くる日に声を録音」するという、「BYT」のルール・指示書が立ち上げるのは、昨日/今日/明日というシンプルな時間だけでなく、記録メディアの過去性と映像をみることの現在性、そして言葉によって示唆される未来への予感という複数に重ね合わされたときがもたらす「時間のめまい」である。「BYT」はのちに、他の作家にも同じ指示書をもとに制作を依頼するプロジェクトとして展開され、私も参加させてもらった。制作して感じたことは、この「BYT」の指示書が「時間のめまい」や「言葉とイメージの関係」という映像メディアの本質的なことを主眼として作品を立ち上げるのに非常に有効であること、そして指示書が駆動する現実に、作者がどのように向き合い(記録)どのように抗うのか(創造)を問うてくるものだということである。ルールと聞くと窮屈で抑圧的なものと思われるかもしれないが、前田作品におけるルール・指示書・プログラムの利用は、その制約によって作者性を排除するのではなく、むしろそのことによって普段は物語や表面的なものに覆い隠されている映像の「構造」を露わにするものであったり、作者の意図を超えたところや無意識に光をあてるものとして機能する。

 ご存じのとおり前田さんの活動は、映像/美術/メディアアートなど領域横断的で他領域のアーティストとの共同制作も多い。今回のプログラムにセレクトされた作品は、それらの多岐にわたる活動のほんの一片でしかないが、それらでさえ、そのスタイルや手法は多種多様である。さらに、今回の企画はスクリーン上映であるが、前田真二郎という作家は「どのように見せるのか」についても多様で、展示上映、ライブ上映、webプロジェクト、そして自ら映像レーベルを立ち上げパッケージで映像を流通させるなど様々な環境でのスクリーニングの可能性を探求している。そのようなこともあって、今回上映されなかった作品やスクリーン上映とは異なる形式での上映も盛り込まれたレトロスペクティブの第二弾が企画されることを早くも期待していたりする。

^註 AD&A Gallery「再生される肌理 -digital images of contemporary art-」、http://www.adanda.jp/event/080215.html(2022年10月28日確認)。

さいとう まさかず/映像作家

作者の消去—— 「BYT」という自己変容トレーニング

松井 茂

 《日々“hibi”AUG》(以下「hibi」)[1]と「BETWEEN YESTERDAY & TOMORROW」(以下「BYT」)は、2008年から2022年現在まで継続するシリーズであり、前田真二郎の主要作品だ。本論では「BYT」に注目し、この作品の意義を提起してみたい。

 「BYT」については、作家自らがキャッチコピー的に「ある一日を撮影、前日に声を録音、明くる日に声を録音/指示書をもとに制作する即興映画」と紹介し、指示書をインターネット上に公開している。現在最新の指示書は、2011年4月8日の日付を持つ第4版だ。その主要部分は以下のようなものである。

1日目 明日撮影する場所とそこに行く理由について話す
   (録音)
2日目 現地で撮影する
3日目 昨日の出来事について話す(録音)[2]

 この指示書は、東日本大震災直後、前田が映像作家を中心に呼びかけた、同タイトルのウェブムービー・プロジェクトに使用された。呼びかけに応じた32人(前田自身も含む)の作家たちによって、60本の「BYT」が制作される[3]。さらに震災後10年という節目に、前田は再び前回の参加者に呼びかけ、2021年にもアンソロジーが編まれた[4]。こうした経緯があって、「BYT」は前田個人の作品というよりも、震災と関連したウェブムービー・プロジェクトとして人口に膾炙した印象がある。こうした状況は、前田の役割を「BYT」のキュレーターとして印象付けている向きもあるように思う。

 「BYT」の第1作《SAWANO-IKE》は、「再生される肌理 -digital images of contemporary art-」展(AD&A gallery、2008年2月)で発表されている。当初は、作家個人のシリーズであったことを確認しておこう。前田によれば、この時点には指示書は無かったという。コンセプトに変わりは無いものの、録音には聞き手がいて、尺は現在の倍(10分)で、第4版とは異同がある。2009年に発表された第2作《TOKYO TOWER》第3作《THE NATIONAL DIET BUILDING》では聞き手はいなくなり、5分となる。そして指示書的な解説が、展覧会「都市的知覚」(トーキョーワンダーサイト本郷、2009年)の会場で掲示されたらしい[5]
 前田は2010年には次のように書いている。

近年の自作シリーズについて考えてみた。毎日15秒のカットを撮影し連結していく「日々」シリーズ、撮影者の予感と記憶をまなざしに重ねあわせる「BETWEEN YESTERDAY & TOMORROW」シリーズはともに、あらかじめ設定した規則に従って完成させる形式が特徴としてある。何かしらの規則を設定することで、日常に潜む未知なるものと遭遇する可能性を高めること、同時に、それに反応する身体情報を映像におさめることが狙いであり、撮影者にとっては「見るということ」のトレーニングでもあった[6]

 「hibi」と「BYT」、ふたつのシリーズは、「規則」に従って完成させるという点においては共通しているが、作品同士は反発しあうような性格を持っている。
 2008年の「hibi」冒頭で、この前年にサービスが始まったGoogle ストリートビューを見ながら、明日の訪問予定を話し、翌日にその場所を撮影する連結がある。しかしその翌日には昨日を語らない。「hibi」は、《日々“hibi”13 full moons》と同じ規則で8月の1ヶ月を撮影するシリーズなのだが、不可逆的な時間軸を推進力とした作品であり、時制は基本的に「いま」だけだ。
 対して「BYT」は、不可逆的な時間軸への介入を、最低限の規則で構想した作品といえるだろう。進行する映像(ある1日)に、未来形の語り(前日)と完了形の語り(明くる日)がボイスオーバーする編集により、映像内に非同期な時空間が作品化される。「hibi」の連結、つまり無編集な自動化に比べると、「BYT」の規則は記録よりも記憶の演出を強調する編集の強調であるだろう。機械的な「hibi」の撮影規則と、自己省察的な「BYT」の編集規則は対照的だ。「hibi」には、メディア技術の進展にシンクロしたモダニスムの美学が顕著であり、「BYT」には、そうした美学への抵抗が含意されている。過剰な言い方かもしれないが、「hibi」は機械的な軸を選択する作家の署名性が明瞭で、撮影行為の神話性が作品概念を縁取っている。他方で「BYT」は、こうした作品概念を無化するように、規則を指示書とし、さらにはプロジェクトの実施で生じる多様性/diversityは、作家を参加者のひとりへと匿名化をはかる。
 対極する作品を同時に遂行する作家の冷静さは、アートヒストリーへの真摯な対峙の証左でもあるだろう。

 アートヒストリーへの対峙は、「BYT」の「指示書/インストラクション」という言い方にも現れている。通常の映画であれば、これは「シナリオ」と呼ばれるべきだろう。黒沢清作品や、Jホラーのきっかけとなった《リング》(1998年)で知られる高橋洋(1959年〜)は、「映画を作る上で必要な作業を立ち上げる設計図たり得ていれば、それはいかなる形式であれ、シナリオである」[7]。「キャメラが回る瞬間、人智の思い至らざる領域への飛躍が起こる(かもしれない)。シナリオは、その起こるかもしれない飛躍のための諸準備の基礎なのである」[8]という。「BYT」が「即興映画」であるならば、むしろシナリオでもよいではないか。

 インストラクションは、マルセル・デュシャン(1887〜1968年)の《グリーン・ボックス》(1934年)に遡るともいえるが、やはりオノ・ヨーコ(1933年〜)を想起するのが自然だろう。オノはインストラクションを始めた経緯を次のように述べている。

アイデアの多くが実現できないままだと、いつもいらいらします。でも作品を「インストラクション化」したとき、実のところわたしは、最終結果を人にゆだねたのです[9]
(中略)
とりわけあのころは、自分の作品に誰かがさわったり、誰かが変化を加えたりということを、ほとんどのアーティストたちは嫌っていました。わたしにとっても大きな一歩でした。わたしは完全主義者ですから。わたしだって、誰かが自分の作品にさわるなんて嫌でした。ある意味、自分自身に逆らって実行したわけです。自分が成長するために、芸術家として自分のエゴを捨てるためにやったとも言えるかもしれません[10]

 1950年代、新たな記譜法を模索するなかで得られたオノのインストラクションは、作曲と演奏の関係に基づいている。しかし音楽に留まらない芸術表現を模索するなかで、絵画や彫刻が支配的な分野において、積極的に他者の参加を呼びかける表現は、それまでの芸術家像を解体していく行為へと発展していく。この時期のオノの表現は、1960年代のフルクサスや、1970年代に隆盛するコンセプチュアル・アートの先駆けとなる。1980年代のパフォーマンス・アートにも繋がるだろう。さらに現代に接続する動向としても、冷戦後1990年代に生じたリレーショナル・アートの契機でもある。

 松井みどりは、ニコラ・ブリオー『関係性の美学』(1998年)へと繋がるこの時期の動向、つまり「あまり技術は強調されず、安い材料が使われます。使いかけの紙や、破れた紙に描かれるドローイングのように、即興的で自然発生的なニュアンスをもち、食べたり、人と話したり、移動したりするような─たとえばサイクリングや、キャンプに行くという─普通の行動を再構成することで人間の生そのものの豊かさに、観客の意識を開こうとする工夫が見られる」[11]という状況の原点に、フェリックス・ゴンザレス=トレス(1957〜1996年)によるオノとフルクサスの精神の継承を指摘する[12]

 ブリオー同様、90年代以降、こうした動向に注目したのはハンス・ウルリッヒ・オブリストだ。現在も継続される「do it」展(1994年〜)にその性格は顕著だろう。この展覧会は、クリスチャン・ボルタンスキー(1944〜2021年)とベルトラン・ラヴィエ(1949年〜)との会話から生まれたという。オノやフルクサスによって拡張された芸術概念をテーマとし、J.L.オースティンの言語行為論の発展だという。言い換えれば、芸術制度に異議申し立てをして、美術館でもマーケットでも流通しにくい、従来のキュレーションから逃走したアートを、ジュディス・バトラー(1956年~)が1980年代に論を展開したパフォーマティヴィティによって再評価する試みであった[13]
 インストラクションを収集し、実行するこの展覧会では、インストラクションを考えた作家は参加させず、観客や美術館のスタッフによって、指示を実現する。つまり、作家が生産したオリジナルを許さず、「パンク用語で言えば、DIY(do it yourself〔=自作〕)」を求めた。「実演されるたびに変容」し、「作品の構成要素は、展覧会が終われば本来のコンテクストに戻すきまりだった。だから『do it』は完全に可逆的だった。リサイクル可能、と言ってもいい。平凡なものがふつうでないものに変貌し、それからまた変換されて日常の中へ帰っていく」[14]。やはりゴンザレス=トレスのフォーチュンクッキーによるインスタレーション(観客が持ち帰ることにより消滅する)を想起させる。
 「do it」の契機となった会話で、ボルタンスキーは、「インスタレーションに向けて発せられるインストラクションは楽譜(スコア)のようなもので、数限りなく反復されていく中で、作者以外の者たちによって解釈され実行される」と話したという。

 オノにとっては、インストラクションで作品を発表することは、芸術家によるアイデンティティの放棄だったが、同じ行為がボルタンスキーにとっては、作品の意味を増幅する機能への注目となった。これは作家個人の差異というより、20世紀半ばと末での変化とみるべきだろう。そして松井やオブリストの発言には、芸術と日常性の架橋が期待されているように見える。
 アートヒストリーへの対峙と、大仰な書き方をしたが、前田の「BYT」は、ヴィト・アコンチやビル・ヴィオラには接続するかもしれないが、スティーヴン・スピルバーグやクリストファー・ノーランには接続しない。もっとも、「配信/distribution」を経たこれからのことは分からない[15]
 それは措いても、前田が「指示書/インストラクション」の背 景に求めた、20世紀後半のアート・ヒストリー(いまさらながら アート・シーンと言うべきだったか)を振り返ると、『関係性の美学』以後への、新たな作品概念、作家と観客への関心が想定されている。その問題系は、現代アートのメインストリームの課題に接続しているのだ。

 「BYT」は、指示書も作品だが、実行された映画も作品である。指示書が前田の作品であることは間違いない。それを実行し「完成した作品の著作権はもちろん、作者(映像をつくった人)にあります」[16]ともいう。何気ない著作権の表記だが、この一文で指示書を実行した観客も作者となっていることに注目せずにはいられない。他方で前田自身も撮影者のひとりとなり、「do it」のように作者の参加を禁じるまでもなく、オリジナルは消去されている。映画(いや、映像メディアというべきか)のなせる業であるのかもしれない。そもそも2008年に「「見るということ」のトレーニング」として始まった際には、作家自身のための規則しかなく、後に指示書が作られ(偶然の災禍を契機に?)、作者のポジションは大きく変更されているだろう。
 ブリオーが2009年に刊行した『ラディカント』で、いわゆるグローバリゼーション以後の芸術は、英語という共通語への翻訳可能性が求められるという。それに抗する方法、つまり「コードの不確定性のためにたたかう」戦術として、「作品やテクストに唯一の「起源」を与える根源としてのコードをすっかり拒絶すること」を提案する。「翻訳とは言説の意味を共有化するものであり、思考対象をある連鎖に挿入することによってそれを「始動させ」、そうしてその起源を多様性へと溶かしこむ」[17]という。そして翻訳の議論をまとめ、「裁定者をもたない水平的な交渉の空間」の実現を志向することが提起される[18]
 要するに原典を消去するところまで、翻訳を繰り返すこと。ブリオーは「移転」という言葉も使うが、様々な人やメディアを介して、再配置し続けることであるだろう。
 ここで私は、自身が研究するポスト・モダニズムの思想家、建築家である磯崎新(1931年〜2022年)を想起する。「1968年」以降、自身の創作はもちろん、あらゆるモノ、コト、国家や文化の「起源/オリジン」を疑ってきたその思考の主題を……。グローバリゼーションの時代に書かれた磯崎のテキストを想起する。「始源はいかなる場合も虚構である。そこには始源の前に起源があるかのごとき騙りがひそんでいる。起源が“隠され”ようとする。むしろ始源が起源を虚像のように浮かばせてしまう」と[19]。磯崎の「虚像」は、ほとんどの場合「映像」と同義であり、この引用を挿入した……[20]

 「BYT」の「指示書」は、明確に作品でありながら、作品の「起源を多様性へと溶かしこむ」装置としても機能していることに注目すべきだろう。「指示書」の良き観客であろうとすれば作家にならざるを得ない。「指示書」を作った作家は、この機能によって消去される。そしてこの仕掛けは、未だ観客でないあなたが、いずれ芸術家になることを待つものとなるだろう。
 この態度は、詩人で美学者の篠原資明が、詩を「定型詩」「偶成詩」「方法詩」に分類していることを想起させる[21]。定型詩は短歌、俳句、ソネットなど伝統詩。偶成詩はいきあたりばったりの現代詩。方法詩は自ら形式を提案する現代詩だ。これらは篠原美学の用語に倣えば、それぞれが感性過剰性、痕跡過剰性、解釈過剰性に対応し、過去への双交通、現代への双交通、未来への双交通が意識された制作術とされる。方法詩が「偶成詩と違うのは、いつか、自分の詩型をためしてみようという人たちを、あくまで待ち受けていることである」[22]。前田の取り組みを、方法詩的なそれと重ねて考えることもできるだろう[23]

 作品の起源を消去したり、作家と観客の関係性を溶解するような芸術体験の設計とは、どのような目的に基づく行為なのだろうか? それは単に1990年代からのアートシーンの流行であるようにも見えるが、そこには現象を超えてなんらか普遍化できる部分もあるのではないかと思う。その萌芽を「BYT」から読み取りたい。
 まず明らかなのは、従来の映画観の否定であるだろう。スペクタクル批判は、制作期間が3日間で、上映時間は5分という作品の性格に顕著だ[24]。加えて、ここまで述べてきた関係性への問いかけが、作家(プロ)と観客(アマチュア)、物語とドキュメンタリー、撮影することと見ることの融合として目論まれている。もちろん動画共有サイトの普及や、ルーティン動画の登場、配信を同時代としたとき、「1968年」の実験映画のような「映画観の否定」とは異なることが起こっていることはいうまでもない。それゆえ、これは解体ではなく融合であることを強調しておく。
 私は、「BYT」が実行する(させる)芸術体験の根幹は、「3日目 昨日の出来事について話す(録音)」にあると思う。簡単に言えば、どこからともなく与えられた指示に従って行為し、自分で自分を振り返る、インスタントではあるが修行のような、自己省察/self-reflectionだ。一昨日の自分、昨日の自分との対話。もちろん意図、意志とはずれる対話もあれば、一致する対話もある。言い換えれば瞑想/meditationの変奏がこの作品の総体なのではないかと思う。この瞑想/meditationに、東日本大震災直後救われた人が多いことは想像に難くない。
 そしてこの参加者たちの力を借りて(一時的なコレクティヴ化によって)、前田自身も作品としての「指示書/インストラクション」の起源からより遠くへ離れていくことができたのだと想像する。自らにこの指示書が与えられたものとして機能するとき、画面の中に登場する前田はリラックスし、前田でありながらそうでもなくなりもする。発話されたことを、この人の意見だなどと考えてもしかたないだろう。出演者はひとりだったはずだが、自由自在に多様性/diversityを得られる。「自画像。自叙伝ではなく」という、ジャン=リュック・ゴダール《JLG/自画像》(1995年)を引くまでも無く、画面に映り込んだものは嘘でもなければ真実でもない。《JLG/自画像》のゴダールは、自然でもなければ演技でもないことは誰の目にも明らかだろう。嘘でもなく真実でも無く、ナルシシズムが許される状況の設定、これはロザリンド・クラウスがいち早く指摘した、映像作家に関する議論に倣うべきことであるだろう[25]。一方で脱自/エクスタシスであり、他方で瞑想/meditationとなる[26]。文字通り自分自身をカメラ越しに指差すように……。

 1950年代に始まる「指示書」をめぐるアートヒストリーは、「他者への開かれ」をメインストリームとして展開してきた。「BYT」はこの先端に位置する。そして「BYT」を介して浮上してくるのは、「他者への開かれ」には伏流水のように存在する欲望として、「自身への開かれ」があり、この図と地の反転が見えてくることだ。これはオノがインストラクションを通じて「芸術家として自分のエゴを捨てるためにやった」ということと矛盾しない。そして、「BYT」が成立する過程で、エゴを引き受ける聞き手が消去したことは大きいだろう。
 前田が書いた「撮影者にとっては「見るということ」のトレーニングでもあった」に立ち戻れば、トレーニングとは撮影の習熟のためのそれではなく、「自身への開かれ」のための「修行」であるだろう。なぜならトレーニングとは、他者のためでなく、自分自身と向き合うことに他ならない。ここに「自身への開かれ」という、作者と観客を分離しない芸術体験への根源的な問いかけが作動している。インストラクションに基づく「他者への開かれ」が作者を消去し、どこからともなく与えられたものとなったとき、「自身への開かれ」が始まる。ここで芸術体験は、「自己変容/self-alteration」[27]へと展開するという仮説を、私は考えたい。
 ジョン・ケージは、自作である《4分33秒》(1952年)について、「演奏されるたびに、驚くほど生き生きとした経験をすることができるんですよ」[28]と発言している。この他人事のようにリラックスした言い方に、「BYT」を経た私は、伏流水としての「自身への開かれ」を垣間見る。

  1. ^2004年(閏年)の366日間、月の運行をベースにした規則に従って、毎日15秒のカットを撮影した《日々“hibi”13 full moons》が、シリーズの原型となっている。
  2. ^「“BETWEEN YESTERDAY & TOMORROW”:指示書」、https://solchord.jp/byt/instruction-sheet.html(2022年10月25日確認)。
  3. ^同プロジェクトは、第16回文化庁メディア芸術祭(2012年)アート部門優秀賞受賞。
  4. ^第68回オーバーハウゼン国際短編映画祭(2022年)等で上映。
  5. ^筆者の質問に対する前田の返答に基づく。
  6. ^前田真二郎「『見るということ』ができるまで② 「星座」撮影日誌」松本俊夫編『美術×映像―境界領域の創造的カオス―』美術出版社、2010年、79頁。
  7. ^高橋洋「シナリオと映画」黒沢清他『映画の授業―映画美学校の教室から―』青土社、2004年、12頁。
  8. ^同上、13頁。
  9. ^ハンス・ウルリッヒ・オブリスト「オノ・ヨーコ」『ミュージック―「現代音楽」をつくった作曲家たち―』篠木直子・内山史子・西原尚訳、フィルムアート社、2015年(原著:2013年)、301頁。
  10. ^同上、303頁。
  11. ^松井みどり『アート―“芸術”が終わった後の“アート” ―』朝日出版社、2002年、159-160頁。
  12. ^同上、137~139頁。
  13. ^バトラーが「パフォーマティブ・アクトとジェンダーの構成」を書いたのは1988年。1995年には日本でも訳出されている(吉川純子訳『シアターアーツ』Vol.3、1995-Ⅱ)。「パフォーマティヴィティ」の概念を拡張した著書『ジェンダー・トラブル―フェミニズムとアイデンティティの攪乱―』(竹村和子訳、青土社、1999年)は、原著が1990年に刊行される。
  14. ^ハンス・ウルリッヒ・オブリスト「do it」『キュレーションの方法 オブリストは語る』中野勉訳、河出書房新社、2018年(原著:2014年)、32頁。
  15. ^映画と現代アートは現実には多くの接点を持つが、例えば秋山聰・田中正之監修『西洋美術史(美術出版ライブラリー 歴史編)』(美術出版社、2021年)に映画は登場しない。ヴィデオ・アートだけである。ハル・フォスター他『ART SINCE 1900―図鑑 1900年以後の芸術―』(東京書籍、2019年)でも映画への言及はなく、ゴダールさえ索引には登場しない。とはいえ、コロナ禍を経た現在、配信の一般化はこの棲み分けを無効にするのではないだろうか。
  16. ^「“BETWEEN YESTERDAY & TOMORROW”:指示書」、前掲サイト。
  17. ^ニコラ・ブリオー『ラディカント』武田宙也訳、フィルムアート社、2022年(原著:2009年)、197頁。
  18. ^同上、282頁。
  19. ^磯崎新『始源のもどき』鹿島出版会、1996年、49頁。
  20. ^2015年の「hibi」は、「天皇」が主題であり、「岐阜おおがきビエンナーレ2015」でのライブ上映《日々“AUG” 8 years mix[2008 – 2015]》(2015年12月23日、ソフトピアジャパン・センタービル)の際には、サキソフォンの演奏と共に歴代天皇の諡が朗読された。そのことからイセが主題の磯崎のテキストを想起していたことも補足しておく。
  21. ^篠原資明『言の葉の交通論』五柳書院、1995年、31頁。
  22. ^篠原資明『まぶさび記―空海と生きる―』弘文堂、2002年、48頁。
  23. ^前田は、美術家の中ザワヒデキが2000〜2004年まで主催した方法主義の活動に興味を持っていた。方法主義は、篠原資明の活動をリファレンスして始まっている。前田との共作がある作曲家の三輪眞弘は、2002年から「方法」に参加していた。
  24. ^もちろん映画館での上映ができない作品ではないが、早い時期からYouTubeへのアップロードがなされたことも特筆される。他方で、いまでは劇場用公開作品がYouTubeで有料化されている状況もある。
  25. ^ロザリンド・クラウスは「ヴィデオ―ナルシシズムの美学―」で、ヴィト・アコンチ等の作品のもつ性格として「省察/reflectiveness」について論じている。この論考は『October』創刊号(1976年)に発表された。邦訳は、『ヴィデオを待ちながら―映像,60年代から今日へ』(東京国立近代美術館、2009年)に石岡良治訳で掲載されている。
  26. ^自己省察をめぐる議論は、直接の引用はないものの、近年の外山紀久子の研究に示唆をえているところが多い。以下参考文献として挙げておく。「上演芸術と歩行―「自然さ」のパラドックス―」『KYOTO EXPERIMENT magazine 2022』2022年。「アストロエステ(ティカ)覚書き―「宇宙人としての生き方」に倣って―」『リベラル・アーツ叢書 musica mundana:気の宇宙論・身体論』埼玉大学教養学部、2015年。「彼(女)らは何をおそれていたのか?―ポストモダンダンスの逆説―」『舞踊學』第30号、2007年。
  27. ^外山紀久子「ポストモダンダンス×歩行芸術:ムーシケー型アートの自己治療的側面?」(『アートと地域の協働をキュレーションする』富山大学芸術文化学部、2021年、30頁)によれば、これはジョン・ケージの言葉。
  28. ^『ジョン・ケージ 小鳥のために』青山マミ訳、青土社、1982年(原著:1976年)、151頁。

まつい しげる/詩人

星座考—— あるいは前田真二郎の〈海〉について

田中 晋平

  “constellation”は、「布置」あるいは「星座的布置」とも訳される概念である。レトロスペクティブの企画者として、「光の布置」というタイトルを提案したのには、デビュー作から2022年夏に撮影・編集された最新作(山上徹也による安倍晋三銃撃の記憶が反響する)まで、前田真二郎が制作してきた作品群をスクリーンに大映しにし、「星座」を描くように連関を浮かび上がらせたいという狙いがあった。しかし、それだけではなく、「星座的布置」は、前田の映像制作の方法論および作品構造を分析する鍵になる概念でもある。
 上記は他でもない、作者が明言していることだ。松本俊夫監修のオムニバス映画《見るということ》(2009年)のために制作された《星座》の撮影日誌内で、前田は、“constellation”を、「『布置』を意味するその概念は私が目指す映像表現と遠くない関係にあると感じている」[1]と記していた。ただ、その理由について、作者は日誌内で明確な説明を加えているわけではない。撮影日誌の読み手も、あるいは《星座》という謎めいたタイトルの作品と対峙する観客も、前田が示した断片的な言葉やイメージを繋ぎ合わせて、その真意を導くしかないだろう。

 しかし、それは過大な要求などではない。おそらく、「星座的布置」という概念は、われわれが生を営む過程で、反復している身振りに対応する。たとえば、理解困難な出来事や問題に直面するとき、われわれは考えをまとめるため、いくつかのキーワードやイメージをまず手繰り寄せ、その関係性を見定める作業から解決の糸口を探っていく。いま本稿を書き進めている過程でも、「布置」を前田の映像を読み解く道標として仮設し、文章の輪郭を導こうとしているように。あるいは映画観客も、作品の断片的なイメージを、まさに「星座」のように束ね、再構成していくことで、映像テクストの読解を行う。そして、デザインにおけるレイアウトが「布置」の形成そのものであるように、映像制作を含めた創作活動のプロセスでも、こうした能力は常に発動している。
 要するに前田の手掛けた映像作品の主軸にある方法は、特別なものというより、われわれが映像をいかに観るのかという問い自体に折り重なるアプローチでもある。では、なぜそのような表現の可能性を作者は追求するのか。議論を先取りすれば、それは「布置」を描くことの失敗、すなわちイメージや言葉が結びつきを失った世界、一種のカオス的状態に対する恐怖、不安という問題系を、作者が抱えてきたことを示唆する。「星座」がバラバラに解け、断片が断片のまま乱反射し、観る者がもはや反応できず、立ち尽くさざるをえないような光景。ジル・ドゥルーズが、第二次世界大戦以降の映画に指摘した、感覚−運動の連関が断ち切られた「純粋な光学的かつ音声的状況」を、こうした光景と重ねることもできるだろう[2]。いずれにせよ、それはわれわれの日常的に習慣化された知覚や意識を瓦解させる、災厄のヴィジョンと言える。本稿で具体的に論じるように、こうした光景に憑かれてきたという意味で、前田真二郎は、繰り返される日常を捉えた映像作家であるとともに、それを破壊するカタストロフィにまなざしを向ける作家だと考えられる。以上の見通しを設け、前田の作品の軌跡を読み解きたい。

断続性

 映画あるいはビデオもまた、視覚的、聴覚的な諸要素の断片を技術的に再構成することで成立するメディアである。バラバラの素材を、あたかも連続的であるかのように編集し、ショットからシーン、シークェンスを構築するに至り、物語やメッセージの伝達を行うにせよ、メディアの条件として、作品内に諸要素の断絶が抱えられることに変わりない。そして、前田がそうであるように、映像や音声を連続的なイメージとして馴致せず、断片の継ぎ目をむしろ露呈させ、いわば「断続性」を際立てる実験作品も映画史のなかで無数に制作されてきた。
 近年の「BETWEEN YESTERDAY & TOMORROW」シリーズから触れるのがやはりわかりやすいだろう。前日に明日の撮影予定について語る音声を収録し、実際に撮影された映像に、前日と翌日に録音した声を重ねて構成される「BYT」シリーズのルールは、作り手による作品のコントロールに制限を設ける。そのため前日の前田は、次の日の予定を語ることしかできず、撮影当日の前田は、想像しなかったような出来事を体験し、翌日の前田は出来事に翻弄された自分を率直に報告する、といった展開が生じる。たとえば、最初の作品である2008年の《SAWANO-IKE》では、冒頭、雪の積もる山道に停車した車の映像に、明日京都の山奥の池に向かう予定を誰かに語る前田の声が重なる。ただ、前日収録されたその声は、画面の映像の説明として当然不足で、やがて翌日の声が介入し、車がスタックして動けなくなったこと、池でキャンプしていた人々に助けられた経緯などが明かされていく。
 「BYT」は、このルールに基づいて、一人の映像作家の同一性を切断し、むしろ、過去と現在、未来の継ぎ目こそを露呈させる。興味深いことに、同シリーズの前田の作品は、「はい。前田真二郎です」という挨拶で開始されるが、翌日起きるかもしれない出来事に身構えた状態で発せられるその声は、どこかぎこちない。おそらく、それは観客に向けられているだけではなく、録音時には明らかでない翌日の前田、さらに出来事を通過した明後日の自分という他者にも投げかけられているのだ。これに対応して、明後日の前田は、一昨日の自分の呼びかけに応じるように「行ってきました」と前日の出来事を報告する。ただ、全てが同じ構成で運ぶわけではもちろんない。2020年の《FATHER》は、近親者との死別を示す映像に重ねて、翌日の前田の声が聞こえてくるが、そこでは昨日病院を訪れたという最小限の報告があるのみで、出来事自体については何も語られない。代わりに、コロナ禍の殺気だった夜の渋谷の街で見た光景が述べられることで、作者の心情を想像させる。
 「BYT」と並行して制作されてきた「hibi」シリーズの場合には、毎日特定の時間に、15秒の映像が撮影され、繋ぎ合わされていく。まず、2005年に《日々“hibi”13 full moons》が発表され、2008年からは、現在まで続く《日々“hibi”AUG》の制作がはじまる。後者は福島諭+濱地潤一《変容の日々》とのコラボレーション、後で言及する《日々“hibi” AUG 2008-2015《天皇考》》(2016年)など、複数のヴァージョンが制作されてもいる。移動先と思われる映像も多いが、切り取られた生活の断片が、穏やかな光に満ちているのが印象的である。また家族や友人らしき人々が画面に映る一方、深夜の街路などの人影のない風景も頻出し、カメラが無人の世界に迷い込んだようなショットもある。
 「BYT」は、個人的なイベントや震災などに関連する特別な日付の通過に焦点が合わされるが、「hibi」シリーズでは、どのような1日も同ルールで映像が切り取られ、15秒経過すれば、翌日の映像に移行していく。月の運行によって撮影時間が決定されている「hibi」のルールは、朝・昼・夜へと緩やかに移行していくのだが、その作品のリズムにも断続性を指摘できる。15秒ごとに切り替わる映像の中で、たとえば、岐阜で撮影されたと思われる映像の後、次のショットでは東京の山手線のホームが映るといった距離の消失が、映像の飛躍=断面を観る者に意識させる。時折挿入される、撮影が行われなかった日付と場所の情報のみ示すイメージ(そのミニマルな文字は河原温の「Today」シリーズを想起させる)も、作品内に空隙として埋め込まれている。
 「BYT」や「hibi」の構成を概観したが、これらの映像体験は、いわば安全な連続した線の上を歩くのとは違う、断線を飛び越えるような映像-音声の視聴を求める。それはイメージの連続性に慣らされた観客の知覚や習慣を、揺さぶらずにいない。そして、観客は現れては消える断片的な映像と音声のズレを認識した上で、それぞれにイメージを再結合していくことが求められていると言えるだろう。まさに映像-音声というイメージ間の星座的な繋がりを受け手が発見し、映像テクストを読解するプロセスが生まれていく。さらに、《日々“hibi”AUG》であれば、同年夏にどのような社会を揺るがす事件があったのか、自分は何をしていたのか、画面から少し距離を置いてこうした想像力を働かせ、観客が回想に耽るための余白も与えられていると言える。
 「BYT」や「hibi」シリーズの、いわば観客を巻き込む作品構造については、作者自身の言葉、および本配布資料の他の執筆者も含め、数多く言及されてきた。その点に異論を挟むつもりはないし、最終的には筆者も、前田の作品が、いかに観る者の関与を促し、イメージの「星座的布置」を形成する能力を触発するかという点に議論を向かわせたい。ただし、以上で認められた、前田の手掛けた作品の断続性について、さらにフィルモグラフィを遡って検討する価値があるのではないかと考える。何故なら、「BYT」や「hibi」シリーズに至る過去の作品、というより最初期から、既に断片化したイメージを、いかに(再)結合するかという問題系に、前田が強い関心を向けていたことが認められるためである。とりわけ記憶と忘却を主題とする作品群において、それは展開されている。

記憶と忘却

 前田が二十歳の時に制作したデビュー作《20》は、ビデオという記録メディアそのものが不可逆の劣化過程にあることを認識したところから生まれた[3]。いずれ失われる映像を先取りするように、モニター上で不安定に歪ませた自画像を再撮影して制作された本作は、作家が映像メディアで何を表現するかではなく、むしろ記録自体が認識できないほど解体し、消滅するという事態に取り憑かれてきたのを示している。第二作《FORGET AND FORGIVE》も、「忘却と想起を体感させること」[4]を目指して制作された三部構成の作品だった。画面には、間隔を刻むメトロノーム、川の流れ、車窓から撮影した街の風景、子供の歩く姿など、日常的なイメージが反復して映されるが、次第にビデオの解像度が変化し、不鮮明になってしまう(忘却のプロセス)。やがて事物の輪郭が判別できなくなる限界まで至った後、元のイメージを視認できるレベルまで、映像が再生されていく(想起のプロセス)。

 初期の代表作の一つである《VIDEO SWIMMER IN BLUE》では、当時の「ブルースクリーンモード」を備えたテレビの特質を利用し、それをテレビ番組終了後に流れていた砂嵐のノイズを隠蔽するものとして捉え、制作される。前田の言葉を借りれば、ブルースクリーンは「野蛮なノイズを隠蔽し、フラットに向かう社会」[5]を象徴している。そして、“VIDEO SWIMMER”という造語については、「非物質なカオスを自由奔放に泳ぐ、原始の運動体」[6]だとされる。《20》や《FORGET AND FORGIVE》の事物を判別できないほど映像を歪ませるビデオノイズでは、記憶の摩滅が表現されていたが、それを引き継いで本作のノイズは、個人の記憶も、あるいは社会的に構築された日常のイメージもバラバラに解けたような、いわば不定形の〈海〉へと変貌している。ただし、《VIDEO SWIMMER IN BLUE》では、平坦化する社会や日常の外にあるノイズを指示するのみならず、その外部に広がった混沌にも飲み込まれることのない「運動体」が志向されている。ノイズの溢れた〈海〉を渡る“VIDEO SWIMMER”、そのイメージは、社会や日常が壊れてしまった世界を、いかにサヴァイブするかという問いにまで結びついているのではないか。
 阪神・淡路大震災やオウム真理教による地下鉄サリン事件が起きた1995年、前田は《L》を制作している。「私」「私は光 私は言葉」という文字の表示ではじまり、誰かから送られた手紙の文言らしき字幕が、映像を寸断するように画面に挿入されていく。手紙が指示する「あなた」は、画面内でそれを読む作者本人らしき人物、さらには観客を宛先としているだろう。他方で手紙の送り主も、作中の映像や音を操作する主体、すなわち映像作家を想像させるというメタ構造がある。前節で触れた「BYT」シリーズのアプローチのように、作者の同一性を寸断していくような視座とも言えるが、《L》はそこから記憶の(再)結合と呼ぶべき主題を展開する。手紙の主は、「あなたはすぐに忘れてしまう」、だから「過去をつ・な・げ・て」と語りかけてくる。

私のことは/いずれ忘れてしまうでしょう
この手紙の最初の方だってもう忘れはじめている
自分の意思では思いだせない/けれど少しの間は覚えてられるから
つ・な・ぎ・あ・わ・せ・て
意味を生み出していく/私に意味が生まれていく

 最初期の作品同様、《L》でも記憶の摩滅という事態が主題化されているが、本作では「少しの間は覚えてられる」からこそ、バラバラに解けていく記憶を再結合するチャンスもあるのだとされる。このイメージを繋ぎ合わせる能力が、断片から意味を生み、「私」を生む。逆から捉えれば、記憶の断片の「布置」を形成し、継ぎ接ぎすることで、かろうじて「私」の同一性は保たれる。
 “constellation”の概念は、以上の前田の初期作品から既に重要な役割を担っているのがわかる。「私」を繋ぎ止めること、それは《20》から展開されてきた記憶の消失、そして、不定形の〈海〉に落下する只中で、「少しの間」だけでも、忘却を逃れる仮設の足場を生み出すことを意味する。ここから「hibi」や「BYT」へと引き継がれ、観客に映像への関与を促すことにもなる、前田の作品の問題系が確実にある。しかし、一直線に結びつけるわけにはいかない。近年のシリーズ作品に至る中で、1990年代後半からその作品は変貌を遂げ、実験映像やビデオアートの文脈と距離を取り、ドキュメンタリー的要素もある映像作品にシフトしていく(映像の「ショット」をめぐる作者の意識の高まりも、2000年前後の作品から認められる)。その過程で初期作品の画面を覆っていた、記録メディアの劣化や忘却と結びついたノイズ的要素も、一見退いていったように思えるのだ。とはいえ、初期作品が接近を試みた「非物質なカオス」は単に消えたわけではなく、いわばフロイト的な「不気味なもの」として、物理的に回帰していると見立てられるのではないか。前田の映像作品における〈海〉の系譜に注目して考えてみたい。

破壊する〈海〉

 前節で言及した初期作品含め、前田はキャリアを通して執拗に〈海〉を記録してきた。今回の特集上映では取り上げられなかった、1994年に発表した《V》も「海を見たい」という台詞にはじまり、二人の男が車で旅に出るが、「期待していた『広大な海』は、海水浴で人々がごったがえしている浜辺の公衆トイレだった」[7]という物語をもつ。原神玲との共作《タニ♯2》(1997年)で即興的に撮影・編集された映像にも、「海水浴場で海に浮かんで遊ぶ親子」や「湖畔に打ち寄せる波」[8]といったイメージが現れる。《V》のインタビューで、中島崇が指摘したように、海に向かうロードムービーは、1960-70年代の日本でも「星の数ほど作られ」[9]てきたが、前田がカメラを向ける〈海〉は、こうしたクリシェと相貌を異にする。
 異なる時間、場所に配置された若い男女が、どこか儀礼的にもみえる身振りを反復する《オン》に触れたい。登場人物たちは言葉を発さない(発しても聞こえない)が、隔てられた若者たちは別の手段、たとえば音楽的なグルーヴを介し、画面にはいない誰かと存在を共にしているようでもある。作中のDJがレコードからレコードへ曲を繋げるように、若者たちの日常をミックスしていく映像(当時のクラブシーンの興隆に対する応答という面も《オン》にはあるだろう)。だが、この《オン》の若者たちも後半、やはり運命づけられたように〈海〉へ惹き寄せられていく[10]。視界を遮るものがない広大な海、そこに打ち寄せる波は、早朝の太陽の光を反射させて白く輝いている。彼らが砂浜に残した足跡を波がかき消すように、若者たちのささやかな日常が、その眩い光の中に溶け出していく感触を抱かせる、忘れ難いイメージである。
 《オン》のDVDに付された帯分で、レイ・ハラカミは、「この作品を見ながら、確かに僕は今、こうして生きていると同時に、確実に死に向かっているんだなあ、なんて考えてました」[11]という評を残している。このコメントは、日常の時間の背後に流れている不可逆的な時間を、《オン》が意識させる証左でもある。《VIDEO SWIMMER IN BLUE》は「フラットに向かう社会」が隠蔽する、「野蛮なカオス」を暴き立てる企みをもっていたが、《オン》の場合は、「いま、ここ」の日常の終わり(死の予感)、あるいは若者たちの生きた痕跡を忘却の淵まで運び去っていく時間そのものを、〈海〉において可視化するのだ。
 2010年以降の作品で前田がカメラを向ける〈海〉は、より破壊的で、非人間的な性質を露わにしていくだろう。特に「BYT」シリーズ内の複数の作品に認められる〈海〉は、東日本大震災の記憶と結びついて登場する。ここでは、2011年3月末に撮影された《ITO-kun》を挙げたい。冒頭、名古屋で行われる予定の反原発のパレードに参加するつもりだと語っていた(前日の)オフの声が、街路をプラカードなどを持って行進する集団のイメージに重ねられるが、映像はすぐに別の場所に移動してしまう。続く(撮影翌日に収録された)声によると、前田はパレードの集合場所の様子を眺めるうちに躊躇いを感じ、急遽遠くまでドライブして、渥美半島に住む友人のもとを訪れた。10年ぶりに逢った友人と前田が、浜辺で会話している様子のロングショットがある。打ち寄せる波と戯れる二人は和やかだが、そのイメージは、数週間前の大震災と津波の記憶を、意図的に想起させるものでもある。人間が営んできた生活の痕跡まで一瞬で破壊する〈海〉。さらに10年の時を隔てた、2021年3月12日に撮影された同シリーズの《Heading to the sea》で前田は、石川県を訪れて、やはり〈海〉を撮影している。曇天の空と海面が溶け合うような光景が画面を覆い、ひたすら穏やかに繰り返される波の音が重なる。前日収録された声が、(コロナ禍で開催された)追悼式典のテレビ放送の様子を報告するなか、カメラは、その静かな風景の背後に災厄の記憶を呼び覚まし、忘却に抗おうとするようでもある。
 「BYT」シリーズの〈海〉は、崩壊を予兆させ、個人の生活や記憶も、歴史さえも解体していく、破壊性をまとっている。そして、「hibi」にもまた、タイトルが示す日常とは別のスケールで流れている時間を意識させる要素が埋め込まれており、やはり〈海〉が決定的なイメージとして登場する[12]。今回のプログラムには含まれていないが、「hibi」シリーズの特別編、《日々“hibi”AUG 2008-2015《天皇考》》に目を向けて考えてみたい。

天皇考

 冒頭、浜辺に波が打ち寄せる光景に重なる説明によると、2015年8月に撮影がはじまった本作は、敗戦から70年という節目に、天皇の戦争責任に関して生じた議論に触発され、制作された。本編開始後しばらくは、15秒で区切られた日常的な映像、たとえば、自宅の窓から撮影されたと思われる風景やコップの底で包丁を研ぐイメージなどが続く。だが、やがてアジア・太平洋戦争の関連書籍や、広島の原爆資料館で展示された写真、人型ロボットのPepperが玉音放送の言葉を読み上げる様子、安全保障関連法案に反対するデモ隊の映像などが現れる。さらにナガタミキの声、濱地潤一のサクソフォンが重ねられ、10月に撮影された愛知県篠島の「おんべ鯛祭」の記録が加えられるなど、同シリーズでは異質な構成がとられている。
 本作に登場するPepperは、象徴的な役割を担っている。広島の原爆ドームの映像に重ねて、未来の人工知能が、天皇制をどのように考えるだろうか、という問いが投げかけられるのである。また、クライマックスでも、伊勢神宮で天皇が行った神嘗祭の記録に続き、新たな生命は人類の歴史をどのように捉えるのか、という声が重なる。そして、次のような特異な場面に移る。黒の背景に初代の神武天皇から平成天皇までの名および「1」から「125」までの番号が一つ一つ浮かび上がり、消えていくというイメージが繰り返されるのである(背後で濱地のサックスが吹き鳴らされている)。あたかも人工知能が情報処理を行うかのように、天皇の存在感、身体的な厚み、イメージなど捨象された数と名が、画面に断続していく。およそ2分40秒におよぶカウントが終えられた後、稲穂の垂れた映像が続き、画面いっぱいに夕日が沈む伊勢湾が映し出され、本作は閉じられる。
 言うまでもなく、《天皇考》は、直接的に昭和天皇の戦争責任に迫っていく作品ではない。また、権力者やそのシステムに対する前田の関心は、《王様の子供》や「BYT」シリーズで2009年に皇居や国会議事堂周辺を撮影した《THE NATIONAL DIET BUILDING》などに見出せなくはないが、本作以降も前田が、粘り強く天皇(制)について思考をめぐらせた形跡は、作品からはうかがえない。ただ、上記の歴代天皇の情報を映したあと、陽が暮れる大洋へと観客の視野を開いてみせる、《天皇考》結末部は、異様な迫力をもっている。発達した人工知能という視座を導入することで、本作は、未来からの遥かな距離を設定し、天皇制の歴史を眺めようとする。その未来には既に王政も、人間さえも存在しないかもしれない。むろん、それはAIを介したフィクションであり、一つの思考実験だが、どのような未来が生まれるにせよ、〈海〉は変わらず、遥かな時間を隔てても、地上に波を送り続けているに違いない。《オン》の若者たちが不可逆的な時間を生きていることを突きつけられるように、ここで人工知能に仮託された非人間的な時間のスケールを体現するのも、やはり〈海〉なのだ。他方でその夕暮れの伊勢湾は、アジア・太平洋戦争で夥しい死者たちが散っていった〈海〉とも繋がっているのではないか。AIの発達した未来からではなく過去へ、その輝く海面の奥底に想像力を潜行させること。(日本国憲法第一条にある)「日本国」の象徴でありかつ「日本国民統合」の象徴として、戦後の天皇を受け入れた日本人たちが、いつしか呼び覚ますことを忘れてきた死者たち。そのような「いま、ここ」とは異なる過去、あるいは未来から届くまなざしや声を感受する場所としての〈海〉。

光の使徒

 前田真二郎の複数の作品を辿り、その破壊的な〈海〉について、思考をめぐらせてきた。だが、本稿がフィルモグラフィを遡りながら、断片的に導き出したもう一つの論点は、こうした非人間的な時間と対峙しながら、前田が蝕まれていく記憶を(星座的に)繋ぎ留め、サヴァイブする方途をも、最初期から探ってきたことだった。災厄のヴィジョンに対峙することを経て、前田は、「hibi」や「BYT」のシリーズの活動を継続していき、「日常」に新たな視線を向け直してきたのである。
 改めてその「日常」について検討する際、上記の《天皇考》のラストに現れる夕暮れの海の風景が、おそらく伊勢湾を望む、愛知県の渥美半島から撮影されていることに注目すべきである。なぜなら、前田はほぼ同じ土地で、《天皇考》を制作する数年前、すなわち東日本大震災の直後の時期、先程も触れた「BYT」シリーズの《ITO-kun》を撮影していたからだ。この場所で《天皇考》のラストショットを撮影し、編集を進めていく中で、前田が東北沿岸を破壊した津波の記憶と、かつて同じ場所で友人と交わした会話を想起していたことは想像に難くない。それは明日世界が破滅するなら、今日何をするかという問いに、自分だったらいつも通り過ごしたい、それが生活を営むということではないか、と友人が答えたというものである。前田はその返答に虚を衝かれ、深く感じ入ったと語る。何故だろうか。それは彼が「BYT」や「hibi」を跨ぎながら記録してきた「日常」もまた、不安定な、脆い世界の中で、一つ一つ足場を築くような営みだったことを、改めて友人の言葉から再確認できたからではないか。カタストロフィは、日常に予感として貼り付き、やがては全てを崩壊させていくとしても、生活はその事実を認識してなお日々繰り返し営まれるし、営まれねばならない。前田の映像群をある「布置」のなかで結び合わせた時、こうした日常と災厄が重なり合う光景を受け入れた上で、生を営む意味を捉え返していく軌跡が浮かび上がる。そして、その作品を観る映像体験もまた、日常を紡ぐ所作とその意味を、われわれが再創造するための場所になるのではないか。
 こうした認識を踏まえ、最後に前田がキャリアの初期に、点字開発者のルイ・ブライユ(Louis Braille 1809-1852年)についての作品を発表していたことを思い起こしたい。6つの点の組み合わせを用い、アルファベットを表現することを可能にした彼の偉業にインスパイアされ、《L》の翌年、1996年に前田は《Braille》を制作した。作品にも登場する、小さな突起が間隔をあけて並ぶ点字は、まさに「星座」のようにも見えるのだが、指先で突起の位置を感じとりながら、それを言語として読み解く体験は、何をもたらすのか。作品の後半のシークェンスでは、映像に付された字幕の文字が、あえてノイズで不鮮明に歪められ、観客には判読できないようにされていく。言語と映像イメージの間の対応関係を、疑似的にであれ脱臼させるその演出は、点字の発明が視覚障害者に何を獲得させたのか、われわれに問い、想像力を試すための仕掛であろう。世界との間に穿たれた空隙を繋ぎ合わせること、そのために必要な確かな足場を、ブライユの創造した点字は提供したのである。

ルイ・ブライユが自分の指に点で作られた小さな突起を感じたとき、彼の顔は喜びに輝いた。これは彼が何ヵ月も求めていたもので、目の見える人の文字と違った書き方だった。そしてこれは盲人の触覚にこたえる文字であった。すなわち点であった。ついに革命的なものが創造された[13]

ブライユが43歳で亡くなった後、点字は世界各地に広がり、それぞれの言語に適用された。その伝記でブライユは、「光の使徒」と呼ばれている。

 映像作家は何故、かつて点字の発明者に惹かれたのだろう。(《L》でも展開されている)触覚性に対する当時の関心も想像させるが、視覚障害者が文字を獲得することで、世界を捉える「布置」を得ていくプロセスに、進むべき表現の方向性を感じとったからではないか。ブライユは、不可視の世界で拠り所となり、生を営んでいくための、いわば新しい技術を発明した。本稿で追いかけたのも、映像という光による創造行為に取り組む前田真二郎の作品群が、バラバラに解けていく世界を、それでも繫ぎ留めるための技法を、観客とともに探し求めてきたことだった。その映像体験は、われわれの日常的な所作にも含まれる、「布置」を形成する能力を呼び覚ます。「BYT」や「hibi」を観ることは、観客それぞれに記憶の破片やイメージを再結合することを導くのだが、それは映像視聴の一つの形式であるだけではない。これから起きる災厄と対峙する時、あるいは老い、忘却に蝕まれ、記憶が解けていく過程で、なお生存のための技法を、各自が再創造すること。前田の作品がわれわれに呼びかけているのは、そういうことではないか。

  1. ^前田真二郎「『見るということ』ができるまで②「星座」撮影日誌」松本俊夫編『美術×映像―境界領域の創造的カオス―』美術出版社、2010年、85頁。
  2. ^Gille Deleuze, L’Image-temps, Minuit, 1985. (ジル・ドゥルーズ『シネマ2 時間イメージ』宇野邦一・石原陽一郎・江澤健一郎・大原理志・岡村民夫訳、法政大学出版局、2006年)。
  3. ^前田の初期作品については下記を参照。前田真二郎「《VIDEO SWIMMER IN BLUE》―アナログビデオの時代」『第21回中之島映像劇場―ビデオアートの上映・保存―』配布資料、国立国際美術館、2021年、https://www.nmao.go.jp/wp-content/uploads/2022/06/7_maeda.pdf(2022年10月27日確認)。
  4. ^同上。
  5. ^同上。
  6. ^同上。
  7. ^前田真二郎インタビュー(聞き手・構成:中島崇)「いつの時代にも一方的な物語が必要だ」『イメージ・フォーラム』1994年10月号、82頁。
  8. ^阪本裕文「映像作家・原神玲と京都時代の松本俊夫」『ユリイカ』2021年6月号、277頁。
  9. ^前田真二郎インタビュー「いつの時代にも一方的な物語が必要だ」、前掲書、82頁。
  10. ^正確には、《オン》の冒頭から画面に〈海〉は現れており、また波の音だけ映像に重ねているシーンもある。次節で論じる《日々“hibi”AUG 2008-2015《天皇考》》と同じように、全編を〈海〉に縁取られた作品と見做せる。
  11. ^SOL CHORD、https://solchord.stores.jp/items/561f50e8bfe24cdeab000179(2022年10月27日確認)。なお《オン》の後半には、廃墟で人知れず生を終えたらしい猫の姿と、登場人物たちが寝転ぶ姿勢を重ね、死のイメージを反復・結合する場面がある。
  12. ^2008年から続く《日々“hibi”AUG》を、今回のプログラムのように並べて鑑賞すれば、作者自身の闘病や老いの過程の記録までも蓄積されているのが示され、シリーズ開始からの時間を感じざるを得ない。あらゆる「日記映画」に当て嵌まるが、一体このシリーズはどのように完結するのだろうかという問いが宿されている。
  13. ^ジャン・ロブラン『光の使徒ルイ・ブライユ―点字創案者の献身的生涯―』沢田慶治訳、日本点字図書館、1970年、28頁。

たなか しんぺい/国立国際美術館客員研究員

第23回中之島映像劇場
光の布置―前田真二郎レトロスペクティブ― 配布資料

編集
田中晋平(国立国際美術館客員研究員)
 
編集補助
湯佐明子(同研究補佐員)
檜山真有(同研究補佐員)
藤井泉(同研究補佐員)

執筆
加藤初代
林ケイタ
齋藤正和
松井茂
田中晋平

発行
国立国際美術館
530-0005
大阪市北区中之島4-2-55
06-6447-4680(代)
https://www.nmao.go.jp

発行日
2022年11月12日

PAGETOP